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TRPG覚書


◆「沈黙」の演出−2001/07/02

 「沈黙」の演出は以下の効果を得るために使えます。用法を誤るとプレイヤーの不興を買うので注意してください(不興を買うためにわざわざやることもある(笑))。基本的にこれは「疑似体験の感覚の促進」「雰囲気の演出」のために使うものです。

・緊張感が高まる
・深刻な雰囲気を引き起こすことが出来る
・精神的なプレッシャーをかけて焦燥感を募らせることが出来る
・場を停滞させることが出来る
 →場の進行速度の切り替えに使用できる。進行が速過ぎるとき/遅すぎるとき。
・思考する時間を作ることが出来る
・話し合う時間を作ることが出来る
・情報を与えずに時間稼ぎできる
 →この間に先の展開を整理しておくことも可能
・PC同士の会話を誘って、PC間の人間関係を深めることが出来る。

 応用編として、この間に特定のプレイヤーと密談を交わすとか、マスタースクリーンの裏でダイスをこれ見よがしに振りつつ何かメモする、というようなアクションを取ることで「裏で何か進行している。何とかしなくては!」と思わせることも出来ます。

 あと、類似テクニックとしては「ちょっとトイレに行きます。その間に話し合っておいてね」という演出もあります。マスターが下手にいるとマスターに頼って自分で考えなくなる、とか、NPCとばかり話していてPC同志会話しない、という弊害が起きることがあります。その回避にいくらか役立ちます。また、マスターがいなくなることでプレイヤーの間での緊張感を解くという効果もあります。
 ただ、やりすぎると場がだれるので注意かな。


◆「死」の演出−2001/07/09

 「死」は、ただそれだけでドラマです。笠井潔の「哲学者の密室」では「死」はそれほど美しいものでも何でもなく、ただだらだらと続く緩慢な苦痛というような表現がされてました。それもある種の真実を含んではいますが、一方で人は「死」を美化したがるというのも真実であると思います。それは、避けられない苦痛であるから人はそれを美化せずにはいられない。
 世の中のありとあらゆる表現の9割以上は“愛”について語っています。それに次いで多いと思われるのが“死”にまつわる表現。割合として3割ぐらいでしょうか?(適当(笑)。万葉集の統計などが参考になるでしょう)

 ということで、世の中の表現の3割を支配する「死」にまつわる表現を極めるということは、世の中の行動原理の3割を支配するということに他なりません。もし、あなたがTRPGで表現できることの幅を広げたいと思うのであれば、世の中で二番目に重要な「死」の表現についての造詣を深めることは非常に有意義と言えるでしょう。

1.「死」は禁忌である
 死は“禁忌”なので、多くの人の中で自然とタブー視されています。生々しい表現はその人の反感を買いやすいです(一部の愛好家は除く(笑))。基本的にストレートな表現を避け、本人の想像するのに任せた方が無難ですし、またプレイヤーの方で勝手に美化してくれて綺麗な場面が出来ます。

2.「死」の表現のいろいろ
 生々しい描写はせずにただ「死んだ」という事実を知らせるというのが基本的な表現です。
 もう少し語彙があるならば、死にまつわる単語を表現に混ぜると効果的です。「血」「動かない」「冷たい」「だらんと弛緩した」etc...
 死に関する隠語もこの世の中には多数あるので、その辺りを拝借するのも有効でしょう(手元に資料がないのでパス)。

3.死の危険への決意の演出
 「死」自体の表現はあまりくどくどやっても喜ばれないのに対して、「死」の前の表現はたっぷり出来る限り引き伸ばしつつ見せた方がドラマチックに見えます。

 「死の危険への決意の演出」というのは、GMがあらかじめ「死ぬ可能性が高いからよろしく」とか言って死の危険を予告したところで、PCにそういった危険へ向かっていく覚悟を表明してもらうためにやる演出です。ということで、時間を取ってしゃべってもらうのがいいです(時間に余裕があるなら)。

 これをやると、まずセッション中の甘えた雰囲気を払拭できます。大体プレイヤーというのは「適当にやっても最後は何とかなるものさ」という程度に考えているものですが、ここで予防線を張って「適当にやっていたらひどい目に遭うことになる」ということを予告しつつ、実際そうなった時に文句を言わせない抑止力にもなります。そしてそうなれば否が応でも緊張感が高まってきます。クライマックスに引き込むにはいい雰囲気。
 あと、ここでそれぞれの決意を表明させることは「これだけの覚悟を持ってお互いやってきている。これだけ真剣にやるつもりである。」という決意をお互いに知らせ合うことになりますので、自然とPCたち(あるいはPLたち)の結束力が高まります。

4.死を受け入れさせる演出
 …それだけの覚悟をしてきても、死ぬ時は死にます(笑)。
 そこで、死をプレイヤーに受け入れさせるための演出が必要になります。これはまあ、儀式みたいなものだと思ってください。正しい手順を形式どおりに淡々と(手抜きをせず)こなすことが自然とプレイヤーの心構えを形作るのです。
 TRPGのセッションでは、以下の2通りのどちらかの方法を取るのが慣例となっているようです。どちらの方法も採らない場合には禍根を残しやすいので気をつけましょう。

一.プレイヤーが自らキャラクターの死を宣言する場合
 これは、自分で言っていることなので納得しないことはありえません(笑)。

二.ダイスを振りその出目に従う
 ダイス判定をするシステムでは、ダイスによる結果はほぼ絶対的な効力を持っているので、「わずかに助かる可能性があったのだけれども、ダイスの目で死が確定してしまった」という状況は受け容れ易いです。

 ところが、手札を判定に使用するシステム、ヒーローポイントを使用するシステムでは二の方法で死を受け入れさせることは極めて困難です。その手のシステムで本当の意味での死闘をやりたいと思うなら、お互いヒーローポイント・手札を消耗し尽くしたところで最後の運試し、という状況に持ち込まなくてはなりません。が、多くの場合一方がヒーローポイントを残し、片方がそれが尽きてほとんど一方的にとどめを刺されるという状況に陥りがちです。個人的にはその辺が面白くないんですけどね…。

5.死の直前の演出
 いざ死ぬと決まったら、それはそのキャラクターの見せ場となります。見せ方はいろいろあります。僕の経験から言わせてもらうなら、マスターが状況描写をフォローしつつメインはプレイヤー自身に自分のキャラの死を自分で語ってもらうのが良いと思います。ここら辺の演出を怠ると、死んだキャラクターが成仏できずに怨霊が出ます(笑)。気をつけましょう。
 具体的なテクニックとしては以下のようなものがあります。

・死に際の言葉を言ってもらう(言う相手がいるとなおよい)
・プレイヤーに自分で自分のPCがどんな風に死んでいくか描写してもらう
・PCの内面描写を自分でしてもらう
・走馬灯を見せる。PCの最も印象深い思い出をプレイヤー自身に語ってもらう
etc...

6.死の直後の演出
 ここも極めて重要です。
 「死とは、大いなる空白である」などと言われるように、死を境にしてそのキャラクターは外部と一切のコミュニケーションを取れなくなる、というのが死を実感させるためにきわめて重要です。
 具体的なテクニックとしては以下のようなものがあります。

・キャラが死んだら30分間一切の発言を禁ずる
・発言は許すが、それに対する一切のリアクションは禁ずる

7.喪失感が悲しみに転化する
 「パラノイア」や「B級ホラー指向クトゥルフ」などをやってる際には、このステップを忘れさせるように次々イベントを起こしていくのが効果的ですが、「死は悲しいもの」と捉えても普通なシステム・セッションではこの過程をじっくり感じてもらうのが重要です。それは悪いことではないというか、その感覚はごく普通の感覚です。はい。

8.死のあとの演出
 キャラクターの死を悲しんでくれるほかの人がいるといい演出ができます。
 死者をちゃんと弔ってくれるキャラクターがいるとそれは死んだPCのプレイヤーに対する慰めとなります。

9.「亡霊」をプレイする
 一部の世界観・システムではキャラクターが死んで亡霊になったところまでルールでサポートされています。キャラクターの死という興味深い経験をしたあとは、さらに珍しい、死んだキャラの亡霊をプレイする機会を得たことにもなります。基本的に亡霊のプレイというのは、「不自由なコミュニケーション」を楽しむためのプレイです。コミュニケーションを取るための何らかの不自由な手段があるといいでしょう。そのコミュニケーション方法自体を探すのも、わりと面白いです。マスター・プレイヤーが許してそれなりのリアクションを返してくれるなら、そういうプレイも一度くらいやってみても良いと思います(何度もやるのは嫌でしょうが(笑))。

10.転生
 ごく一部のシステムではキャラクターの転生までルールでサポートされています。具体例としては「ローズ・トゥ・ロードシリーズ」「ウィッチクエスト」「輪廻戦記ゼノスケープ」など。転生したキャラクターとの出会いの話もシナリオのネタとしては面白いですね。

11.死の世界での冒険
 死んだ人物をよみがえらせるために死の世界に行くという話は古今東西の伝説・民話でよくあるテーマです。キャラクターが死んでしまって、しかもそれを甦らせる必要があるのであれば、そういう話をシナリオでやってみても良いでしょう。その手の話はある程度基本パターンが決まっていますので、資料とか調べてみるとなお良いでしょうね。

12.夢落ち
 また一方で、記憶喪失のキャラクターとかが何か冒険して敵を倒したら、実はそれが夢の中の話で、現実の人間が死の危機を奇跡的に回避して息を吹き返した、というような話もわりとよく使われるプロットです。キャラクターが死にそうになったときや、あるいは単発でこの手のセッションをやってみるのも面白いでしょう。

13.終わりに
 「死」はただそれだけでドラマになるので、僕は非常によく演出として使います。能の世界では「ハレ」「ケガレ」と二つに世界を区別しますが、「死」の演出を使うと容易にセッションを「ハレ」の領域に持ち込むことが出来、緊張感のあるプレイがやりやすくなります。

 しかし、やたらにキャラクターを死なせたがるプレイヤーも困りものですね。プレイヤーがどう思っていようと「キャラクターはよほどの理由がない限り自ら死を望むことはない」「『死』は極めて重大な事件である」という認識が足りないと、本人はそれでよくても他の人の死生観に抵触してしまう場合があります。気をつけましょう。

 いずれにしろ、TRPGでは戦闘したり危険な場所に踏み入れることが多いですからキャラクターが死ぬことはあります。それは仕方のないことです(というのがごく現実的な認識です。現実に死なない人はいないでしょう?)。キャラクターが死ぬことになった場合に重要なことは、それをごまかして回避するのよりも、きちんと死なせることだと思います。

 現実の「死」においても、それを受け入れるために実にさまざまな儀式・慣習が施され、そういう過程を経て人は自然に「死」を受け容れることが出来るようになるのです。TRPGの中でのキャラクターの「死」も、ある意味同じことです。TRPGの中での「死」は現実ほどリアルなものではありませんが、死んだあとにその死んだキャラクターのプレイヤーがそこに居続けますので、それがまあ仮想現実での「亡霊」と言えないこともありません(笑)。キャラクターが死ねば、たとえそれが自ら望んだもとしても未練が残るものですので、それをちゃんと晴らしてあげるようなプレイをすることが重要です。実際に「亡霊」がいて目に見える分、現実の「死」よりもある意味厄介というか、リアルとさえ言えるかもしれません(笑)。


◆シナリオ構造とアドリブマスタリング−2001/07/15

 大抵のゲームマスターは多かれ少なかれ「アドリブ」というものをやっていると思います。よっぽど詳細なシナリオを作ったとしても些細なことでPCの行動は想定外のシチュエーションや描写を要求してきますので、それに対応するにはアドリブは必要です。

1.一本道シナリオでのアドリブ
 アドリブでの対応がうまくなってくると、「アドリブマスタリング」などと公言して、設定をあらかじめ作らずに(手抜きともいう(笑))アドリブだけでなるべく全部に対応しようとするやり方をする人もいます。これは何でそんなことができるのかといえば、そのマスターの頭の中にストーリーパターンがあらかじめ入っていて、それをなぞってやっているから出来るのです。

 アドリブを肯定する向きでは、「シナリオであれこれ話を規定せず、アドリブで対処するようにすると自由度が高くなる」という考え方があります。実はこれ、正しくありません。

 というのは、ここで行われている「アドリブ」というのは、状況が思惑を外れてしまったときにGMの既知の展開に引き戻すためのテクニックだからです。だから、これは展開のバリエーションが増えるわけでは全くありません。

 このテクニックは、基本的に話の大筋は変えない、というコンセプトに基づいて使います。このテクニックの利点は、様々な状況に対応しつつ元々の話を壊さずに進行できるという点。プレイヤーから見れば、話の大筋は変わらないけれども、個々の細かい部分でキャラクター独自の場面が創出できる、という点です。あと、がちがちの一本道シナリオに比べて束縛感が少ない(かのように思わせることが出来る)点が利点です。

 付け加えて、このテクニックのお手軽な点はGMが「1個だけ」典型的なストーリーパターンを覚えさえすれば、あとは実践で様々な状況に対応する技術を磨いていくだけで、いくらでも何度でも、同じストーリーパターンのセッションが出来るようになるというところです。これで、普通にGMをやっていく分には十分困らなくなります。

 もちろん、同じようなパターンばかりやっているとそのうち飽きてくるかも知れませんが、そんなときは「ルールのもっと別の細かい部分を使ってみる」「別のシステムを使う」「背景世界を変える」「GMを変える」といった風に目先を変えていけば、それだけでずっと長く遊んでいくことが出来ると思います。

2.アドリブによるストーリー分岐
 ここからの話は、かなりマニアックな(高度な)マスタリングに関わってきます。
 普通にTRPGを遊ぶ分にはこんなテクニックはあまり必要ないのですが、ある種の非常に独創的な発想力を持ったプレイヤーとTRPGでもっと緊迫したスリリングなプレイをしたいとか、マスターが非常にきまじめで本当に言葉通りの「キャラクターの意志決定でセッションの未来が変わる」というのを実現したいとかいうときに、このテクニックは必要です。

 何か、「普通の人はやらなくても良い」と脅してるみたいであれなんですけど(笑)、もう一つの現実的な状況としては「キャンペーンをするときにはこのテクニックが必要です」。

 単発式のシナリオをプレイしている場合には、1本道シナリオでメインのラインを決めておいてそこに何とか合わせていこうという方針でマスタリングしていくのが、実際セッションをスムーズに成功させられる可能性が高いので、広くそういうやり方でプレイされているようです。
 「キャラチャット」とかのプレイ方式の場合には、かなりその対極にあるんですけど、世間では「キャラチャットはTRPGではない」という認識が一般的なようです。こちらの方向性だと究極的に「マスターは要らない」となるんですが、そこで敢えてGMのエゴを導入して調和を取るという方策を昔模索してましたね…(笑)。

 それはさておき、キャンペーンで一本道シナリオというのは、やっていてとても窮屈になります。大河ドラマ的な大きなストーリーラインを持ったキャンペーンを行う場合、もちろん最初に大体の話の方向性は決めるべきですが、実際にプレイしてみると最初考えたそのまんまな展開をすることはまずありえません。一本道シナリオの手法をそのまま使うなら、展開が思ったのと違う方向に転がってしまった場合、当初の方向に引き戻すようにマスタリングしていくことになりますが、これがなかなか窮屈で長くやっているとだんだん無理が出てきます。コンシューマゲームの一本道シナリオな「ファイナル・ファンタジー」とかやってると非常によくわかるんですが、話の中盤くらいまでは好奇心で着いていくことが出来ますけど、後半はもう飽きてきて惰性になっちゃうんですね。メインの話を完遂させるための様々な設定などが実に押しつけがましく見えてきてしまうようになる。

 要するに、キャンペーンだと一本道シナリオの手法をやる際の細かいあら・無理・不具合がだんだんと目に付いてくるようになって来るんです。一回こっきりの単発セッションならそこに気付く前に終わってしまいますので特に問題が出ないのですが、長期キャンペーンの場合にはそうは行きません。

 そこで、現状を踏まえて先の話の展開を根本的に変えていく必要が生じます。そうするとそれまで使用していたストーリーパターンの組み替えとか、全く新しい別のパターンの導入が必要になります。キャンペーンセッションの場合には、セッションとセッションの間があいていて十分時間がありますので、リアルタイムに考えて対応する必要がありません。資料を調べる時間もあるし、いい展開を思い付くための時間も充分にある。

 さて、ここでやっと本題に戻りますが、より高度なプレイを目指す場合、こういうテクニックを一セッションの中でもリアルタイムに駆使できるようになると本当に自由度の高い流動的なセッションを出来るようになります。その場合のテクニックとしては、一本道シナリオのテクニックの単純な応用となります。要するに「知っているストーリーパターンのバリエーションを増やし、それをセッション中に即座に引き出して適用できるようにする」ということですね。これは、まず、本当にいろんなメディアから「ストーリー」というものを吸収して蓄積していくしかありません。

 ただし、単純にいろいろ見て知識を増やしたところで実際のセッションでそれが出せなければ意味がありません。単純に「場数を踏め」とか身も蓋もない言い方をすることもできますが(笑)、高度なアドリブマスタリングを補助する方法論はいくつかあります。あくまで最終的な部分はマスターする本人のセンスに依存しますが、アドリブマスタリングしやすくする為の方法論はいくつか存在するのです。
 僕が知っている範囲では、具体的に以下のような方法があります。

<1>キャラクターの行動原理を細部まで詰めておいて、いつでも、その“キャラクターらしい行動”を想像しやすくしておく。
<2>舞台を限定する。
<3>タイムスケジュール管理をする。
<4>場面ごとに、そこで想定しうるストーリー的分岐を即座に考えて、それぞれの分岐の先の展開まで考慮しておく。

 <1>〜<3>は、シナリオをちゃんと作っておけばある程度対処できます。
 <4>は、僕がよく使う手法なんですが、何か重要な場面に来たらだいたいそこで起きそうな展開を2〜3くらい考えます。「ゲームブック」をやってたり趣味で作ってたりするとわかりやすいと思うんですが。アドベンチャーゲーム・サウンドノベルでも同様ですね。特定の状況でキャラクターが“ごく自然に”選びそうな展開を複数、素早く考える。実際にプレイヤーが選んだ展開が全く想定した展開と同じとは限りませんが、それにいちばん近い展開を適用・微調整して対応する、というやり方です。で、実際の展開が決まったら、シナリオの先を読んで、今回の選択によってどんな影響が出たか…というところまで考慮する必要がありますが…。たいていの場合、選択の影響で大きな変更が出ることは少ないです。変更の必要が出ても、変更部分が多岐に渡ることはまずありません。唯一問題になるのは選択の影響が“権力者”や“大規模組織”の逆鱗に触れてしまう場合です。そういうときは、大きな力がその対処に動き出しますので状況が激変します。この時だけは、きちんと計画を立てて「こういうイベントが起こっていく…」というのを決めて強制的に次々実行していきましょう。プレイヤーが状況の変化に気付かずぼーっとしてたら笑ってあげるといいです(笑)。

 …実際のところ、ストーリーの分岐までアドリブで対処しようとする場合には結局元々のシナリオをある程度ちゃんと作っておく必要があると思いますね。そういう基本的な部分をしっかり固めた上でそこにさらに自由さとか驚くべき展開にも対処しようとするのが「分岐のアドリブマスタリング」だと思うのです。

3.完全アドリブ
 例えば、ランダムイベントチャートとかランダムシナリオ作成ツールなどを使って完全にランダムな状況にアドリブで対処する、というようなセッションを実際にやったことはありますでしょうか?こういうセッションは、話が本当にどう転ぶかさっぱりわからなくて面白いです。発想と思い付きのゲームですね。

 2.のところでも書いたように、キャラクターや舞台の設定をあらかじめきっちり決めておくと対処し易くなります。
 ストーリーのパターンをGMがたくさん知っていると展開が多彩になって面白いですが、実際は「ありがちな展開」に収まることが多いですね。

 もうちょっと高度なプレイを考えた場合には、キャラクターに実現させたい大目標を決めて、そこに行き着くまでに必要なアイテム・場面までアドリブでその場で考えてプレイするということもできます。というか、そこまで考えてプレイしないとこのスタイルは面白くありません(笑)。


◆長期プレイの運用法−2001/09/07

 以前「キャンペーンの運営」で似たようなことはすでに書いたのだが、概念的な話が多かったので今回はもう少し実用的な話を書くことにする。

0.長期プレイになるセッションの種類
 ・キャンペーンをやるとき
 ・1セッション時間が短い場所で、大きめのシナリオを分割してプレイする場合

1.セッションの計画を立てる
 僕自身漠然としか計画を立てずにいい加減にやってたりするのだが(笑)、キャンペーンなどで複数回の長期で完了するようなセッションをやる場合、一応何回くらいで終了するかの目算を立てておくと良い。持ちキャラをただ継続して育てつつプレイして、1回1回読み切りみたく完了するタイプのセッションの場合には、あまりいつ終わるかということについて考慮する必要はないかもしれない。

<考慮点>
・1セッションのプレイ時間はどれくらいか?何時間?
・どういうサイクルでプレイするのか?
・上の2つからいつ完了するとみられるか?

 あまりに長期に渡る場合、参加者の個人的な都合によって参加が不可能になる場合もある。話としてちゃんと切りの付くタイプの長期セッションを行う場合には、期間は最大でも半年から1年くらいで終了するようにするのが良いかと思う。それ以上続ける場合にはキャラが入れ替わりになる可能性や、初期の動機付けが忘れ去られていく、ということも考慮すべきかと。

2.参加人数
 参加者を何人にするかも考慮すべきである。

 多すぎると人数分セッションの進行が遅くなるのに加えて参加者の都合を合わせるのが難しくなってくる。というか、ある程度以上人数が多くなってしまった場合には、毎回全員参加は不可能である(学校のサークルで、みんな同じ学生な場合にはその限りではない)。従ってその時参加できなかった人は切り捨ててセッションを進行させていくことになるのだが、その場合には「参加者が来ていない」ということで今参加している人間のモラルまで低下する危険がある。なので「人数足りなくても今いる人間で楽しいセッションが出来た」という印象を与えることが重要となる。人数が減ってあからさまに寂しいというような状況になると、なかなか厳しい。

 逆に一人二人減ったくらいじゃ気にならないくらいに人数を増やす、というやり方もあるようだ。このやり方をすると、やり方が根本的に変わってGM一人で管理することは不可能になる。プレイヤーの中にリーダーを作って話をまとめてもらうとか、プレイヤー(PC)同士話してるだけで楽しいという雰囲気を作るとか、そんなようなことが考えられるだろうか。

 人数が少ない場合には全員が集まるのが容易になる。しかし人数が少ない分一人一人の話の上での重要度が増すので、一人欠けると痛いという状況になりがちである。それでも個人で行動するのを優先するスタイルにすれば、PC同士関わらざるを得ない場面にならない限りは個別に話を進めていくことが出来るようになる。

3.忘却
 長期プレイで起こる最大の弊害は「プレイヤーが過去のプレイのことを忘れてしまう」という点である。忘れていないとしても、以前盛り上がった雰囲気をまた次の回で盛り上げ直すのには少々骨が折れる。

 プレイを忘却してしまう弊害に対しては、前回までのプレイの記録(簡単に見てわかるものだとなお良い)を準備してみせるのが効果的である。

 インターバルを置くことで盛り上がってきた雰囲気を再生させるのが難しい点については、2つ方法がある。

<1>盛り上がる直前で切って次回に繋げる
<2>新たなイベントを起こす

 つづきものの落語でも同様の手法が良く採られる。その日のクライマックスをこなしたあと、次の盛り上がりの予告のような場面をやって、プレイヤーが「何?何?」と言っている間に「次回に続く」とやって切るのである。GMがセッションの時間管理が出来ないと難しいが、慣れてくると驚くほどぴったりなタイミングでセッションを切れるようになってくる。

4.モラルの維持
 長期セッションにおいてはモラルの維持が極めて重要である。それは参加者の出席率に直結する。
 「最近集まりが悪くなってきたなぁ…」というときは参加者のモラルが下がってきたと考えて間違いない。最悪セッション消滅の危険もあるので気を付けた方がいい。対策としては以下のようなものが挙げられる。

・楽しませる
 至極当たり前の話だが、その日参加して楽しくなければ次回も参加しようなどとは思わないものである。義理で参加してくれる場合もあるが、それにも限界はある。
 必ずしもGM一人で楽しませなくてはならないということではないが、GMをやる人間は「今、あまり楽しんでないように見える人間は誰なのか?」「その人を楽しませるにはどうしたらよいか?」といったことに気を配る必要がある。GMとして出来るのは「とりあえずその人に話を振る」とか、「今日は出番が少ないけどごめんね」と一声かけるとか。そういったちょっとした気配りが功を奏することが多い。

・初回が大事
 キャンペーンの場合には、初回でどれだけ盛り上げられるかがその後のセッションの行く末を決めると言っていい。計画通り行こうが行くまいが、とにかく楽しませることが肝要である。そうしておいて2回目のセッションで流れをコントロールするようにすると、以後スムーズにキャンペーンを進行させていくことが出来るようになる。

・あまり来れない人への対策
 仕事の都合などであまり参加できない人については、そもそも参加するなよという話もあるが(笑)、人数の関係でそうも言ってられない場合もあるし、本当に参加したくてやる気もあるんだけどやっぱり仕事であまり出られない、ということもある。また、あまり参加してないとそれだけ状況がわからなくて取り残されてしまうということも多い。
 僕としては、そういう人こそ苦しいスケジュールの合間を縫ってやって来てくれているので、その少ない機会で出来る限り楽しませてあげたいと思う。そういう人が楽しんでモラルが上がるとその雰囲気が他の人にも伝播するという効果もある。たまにしか来れない人がいつ来るか事前にわかっている場合には、その人のためのイベントを用意しておいても良いくらいであろう。

・参加者と連絡を取る
 あまり来ていないと「やってるかやってないかわからない」と言って来ない人もいる(笑)。セッションの出席率があやしくなってきたときには一人一人に連絡を取ってきちんと確認するのが良い。「言えばやる」という人間は世の中に多いものだ(僕もだけど(笑))。

・定期的にプレイする
 必ずしも定期的にプレイできる環境にあるとは限らないのだが、可能なら週1、隔週、月1とかで定期的にプレイするのは良い効果がある。とりあえず「その時、その場所に行けばいつもやっている」という印象を付けると安心して参加しやすくなる。

・時間を守る
 GMが時間を守らないと参加者も時間を守らなくなる。最悪自分がそこに行く前にみんな帰ってしまうということもあり得る。常識的な話だが時間は守りましょう(僕はよく遅刻しましたが(笑))。

5.きちんと終了する
 いつ終わるか決まっていない漫遊記的なセッションは除いて、それなりの結末を終えるタイプの長期セッションの場合には、きちんと終えてみせることが重要である。あなたが、そのセッションをきちんと綺麗に終えてみせれば、好感を持ったそのプレイヤーは、またあなたのセッションに参加したい(してもいい)と思うであろう。さもなければもう二度とあなたのセッションに参加しようと思わないかもしれない。

 これは、GMとしての信用問題なのである。(と言いつつ途中ですっぽかしたり自然消滅させてしまったセッションも、僕自身いくつかあるのだが(笑))


◆自称「初心者」の功罪−2001/09/10

 非常に愚痴っぽくて申し訳ないのだが(笑)、TRPGをやっていると何年やってるのにも関わらず、いつまでも「初心者です」という人をよく見る。はっきり言って僕はそういう「(自称)初心者」が大嫌いである。

 とりあえず自称「初心者」=「初心を忘れない善い人」という意味で良心的に解釈して、その際に得られる利益について列挙してみよう。

・GM/他のプレイヤーが親切に対応してくれる
・何かわからないことがあったときに遠慮なく質問できる
・いろいろ「初心者だから」という理由でアクティブにトライできる
・失敗を恐れない、というスタンスを取ることができる

…上のような項目はいわゆる「ベテラン」で尊大になってくると忘れがちな部分なので、ぜひいつも念頭に置きながらプレイしてもらえると良いと思う。

 問題なのは「初心者」という立場を盾にとって、TRPGにある程度慣れたベテランなら当然出来てしかるべき事を放棄したり甘えてくるプレイヤー。

・考えないプレイヤー
 問題解決のための方法を考えるというのはTRPGを遊ぶ上で必ず必要な行為である。問題放棄するのは「ゲームを放棄する」「ゲームに参加しようとしない」のと同義。お決まりの依頼パターンのシナリオで「キャラの設定上依頼を受けない」と言い訳してセッションへの参加そのものを放棄するプレイヤーと一緒。そのプレイヤーは「初心者」をロールプレイすることによってゲームに参加することそのものを放棄しているのである。

・プレイヤーも協力してセッションを盛り上げるべきだというスタンス
 これも至極あたりまえの話だが、GM一人で出来ることには限界がある。場を盛り上げるとか、ルールサポートとかは、すでにプレイ経験のあるプレイヤーは出来る範囲でGMや本当の「初心者」を手伝ってサポートすべきと思う。やれる以上のことをやれとは言わないが、やれる能力があるならやってあげてもいいのではないだろうか?

・ルールを覚えないプレイヤー
 「初心者」はルールを知らなくて当然である。しかしプレイ経験のある人間なら最低限の基本事項は覚えていてしかるべきだ。そうした方がGMの負担も減ってセッションをスムーズに進められるようになる。
 で、もう少しプレイヤーに求めるなら、何かわからないことがあったら自分でルールを調べるとか、他の人が分からないときにもGMの代わりに調べるとか、そんなことをやってGMを手助けできる。

 ほかにもいろいろあるかもしれないが、自称「初心者」を名乗るプレイヤーというのは上のような利益を消極的スタンスによって放棄する。初心者を名乗らずサポートしていればずっとスムーズに進められるはずのセッションを「何もしない」ということによって滞らせるのである。

 あくまで上のような行為は当事者の善意にのみ依存する事柄だが、ルールを知り、セッションを何度か経験した人であれば、自然に出来るようになることだ。出来るなら出来る範囲でやった方がいいのではないかな?

 それとも、あなたはいったいいつまで自称「初心者」を名乗って周りに甘え続ければ気が済むのかね?

(とは言うものの、知ってることを鼻にかけて、よけいなことにまで首を突っ込んでくるお節介な奴も嫌なんだが…って俺のことだわ(笑))


◆“幻想的”の演出テクニック−2001/11/24

1)“表現としての”ファンタジー

 「ファンタジー」にもいろいろあって話しだすと長いのだが、“ファンタジー”という“一表現形式”を使用する場合、その核にあるのは「幻想性」である。

 「幻想性」が主に引き出される状況というのは“日常と非日常の対比”にある。

 読み手にとって日常として捕らえられるものの中に何かひとつでも「非日常的なもの」「不思議なもの」「異常なもの」が現れたとき、それは「幻想」となる。
 そういう意味から言えば、巷にあふれている「(伝統的西洋風)ファンタジー」は表現形式としてはすでに“ファンタジー”ではない。というのはそこで描かれている「日常」は「西欧社会の日常」であって「我々(日本人)の日常」ではないからだ。むしろ同じ論理に従うのであれば、「伝奇物語」「忍法帖」「妖怪話」etc...の方が、我々にとっては「表現としての“ファンタジー”」である。

 とは言うものの、いわゆる「西洋風ファンタジー」は立派に市民権を得ているし特に否定する気もない。ただそれは私たち日本人にとって見ればSF的異世界物語とでも言った方がふさわしいと考える。で、こちらの「西洋風ファンタジー」については世間に例がいっぱいあるのでいまさら説明する必要もなかろう。

 ということで、本論考ではファンタジーの本質(※)である「幻想性」をいかにして演出するか?について論述することとする。

(※)「本質」と言ってもその由来から言うと派生的に生まれたものに過ぎない。しかし「幻想性」を真っ向から描くことが出来るのは“ファンタジー”だけである。そういう意味で、あえて表現の一様式として“ファンタジー”という手段を選ぶのであれば、「幻想性」を引き出すことを考えなければ、わざわざその手法を採るメリットがないものと考える。

2)諸説紛々
2−1)論理的に説明してはいけない

 SFと“ファンタジー”の表現としての根本的な違いはその論理性にある。その背景世界の中で「不思議」なり「幻想」なりが論理的/科学的に説明できるかどうかというのは、実際のところそれがSFであるのか、ファンタジーであるのか、ということにまったく関係がない。そうではなくて、そういった「不思議」を物語上どう取り扱うかがSFとファンタジーを分ける。

 SFでは、どんな「不思議」なことが起きてもそれを科学的論理的に説明する。そうすることで「不思議」と「日常」の掛け橋を作り、「日常」に引き落とす。SFは読み手の理性に訴えかける。

 ファンタジーでは何も説明しない。何も説明せずにただ丸呑みする(笑)。ファンタジーはただ読み手の感性に訴えかける。

2−2)科学と魔法の違い

 SFと“ファンタジー”の根本的な違いは「科学」と「魔法」の根本的な違いからも測ることが出来る。あらかじめ言っておくが、RQのような魔法は“ファンタジー”における「魔法」とはまったく違うと私は思う。あれはどちらかと言うと、そのファンタジー世界における「科学」と言っていいだろう。そこには何の幻想性もない。

 「科学」とは何か?「科学」とは“因果”である。ただ単にどのようにしたらどうなるかという現象を説明するのが「科学」である。それには一切の目的がない。一切の“なぜ”もない。

 「魔法」とは何か?魔法とはくさい言い回しになるが(笑)「想いを叶える力」である。どんなにすごいことが出来ようが、人の思いをかなえることが出来なければそれは「魔法」ではない。どんなに些細なことであろうが、人一人の想いをかなえることが出来たらそれは「魔法」である。

2−3)“普通”になった瞬間「幻想性」は消失する

 同じ異質な題材/世界を扱っていながらSFやミステリが根本的に“ファンタジー”と相容れないのは、SFや推理小説が最終的にはせっかく創り上げた「幻想性」を破壊し、「日常」に引き落とすこと自体を目的としている点である。“ファンタジー”に説明は不要である。それは明らかにしてはならない。ただ、感じさせ、納得させ、丸呑みにさせるだけである。

 重要なのは心理的効果であり、論理的説明ではない。

 たまに「普通のファンタジーがやりたい」と言われることがあるが、これはこの言葉自体が論理的に矛盾している(笑)。

2−4)普通ではない“何ものか”を描く

 ファンタジックな演出というものはまず「普通ではない何ものか」を描き出すところから始めるといいであろう。ここでその現象を科学的に説明してしまうとせっかくの演出効果が台無しになってしまうので、決して説明してはいけない。しいて言うならその「演出効果」なり「演出自体」なりその「驚き」自体が「幻想」であったり「魔法」であったりするのだ。

2−5)“ファンタジー”は「日常」を破壊する

 SFとかでも良く使われる手法だが、普段我々が「普通」と感じていることを崩したり破壊したりして見せることは心理的に大きな効果がある。重要なのはその「効果」自体をよく感得して維持することである。

2−6)「現実」のエッセンスを抽出して魅せる

 “ファンタジー”的表現の真に素晴らしいところの一つは、現実にとらわれることなく、現実の中にある極めて本質的な部分を拡大先鋭化して見せることが出来る点にある。

2−7)“ファンタジー”の語法

 “ファンタジー”的表現というのは単なる「非人間的表現」「前衛的表現」とは違う。一見、異質な何だかよくわからない者を描いているように見えるかもしれないが、実際は我々がごく自然に「感じている」ものを描いている。それらのものには「論理」を超えて人を共感させる力がある。あなたが“ファンタジー”的表現をしようと思うのであれば、まずあなた自身が自然に「感じているもの」を描き出し、それを人に表現して見せることが出来るようになる必要がある。それは、人それぞれの経験や資質に基づいているので一概にこれと言うことは出来ないのだが、その中にもある程度普遍的に通用する事項があって、それは“ファンタジー”的表現として使える。

 具体例としては

・あなたは夕陽を見たときに何を想うだろうか?
・あなたは夜の闇で何を感じるだろうか?
・星を見て想うこと
・「まつり」についてあなたが想い描いている幻想
・子供の頃の思い出
・海を見て想うこと
・身近な人が死んで感じたこと
・空を見て想うこと
・雲を見て想うこと
・月を見て想うこと
・川の流れを見て想うこと
etc...

…といったような事柄は、論理的に説明する必要なしに人の感性に直接訴えかける力を持っている。これらのものにほんのひとかけらのフィクションを織り交ぜることで“ファンタジー”的表現は完成する。

3)まとめ

 散々書いたが、“ファンタジー”的表現をするためには論理的に説明するのではなく、人の感性に直接「幻想」なり「不思議」を訴えかける必要がある。だから、人の感性に訴えかける表現をするためにあなた自身の感性を磨く必要がある。

 最近は情報の伝達が極めて早く便利な時代なため、人の感性が画一化されがちである。それが“ファンタジー的表現”にとって良くないのは、何をやっても「普通」に見えてしまう点であろう。しかし、ほとんどどんな人でも、人には見えない、自分にしか感じることの出来ない何ものかを持っているはずで、そういう部分にこそあなたの“ファンタジー的表現”の源がある。

 いろんなものを見て、聞いて、感じて、感性を磨きましょう(w。


参考)僕がファンタジーだなぁと感じる作品

 趣味が伺えますが(笑)。
 ま、能書きばかりたれてもしょうがないので、参考作品をあげておきます。頭で考えるより見て感じてもらった方が早い(w。

<本>
「鉄塔武蔵野線」(新潮社)
「ハイブリッド・チャイルド」(早川文庫)
「迷宮1000」(創元推理文庫/ヤン=ヴァイス)
「死の舞踏」(創元推理文庫/マーヴィン=ピーク)
「二人のイーダ」(灰谷健次郎)
「すべての人に石が必要」(?)
「霧越邸事件」(新潮文庫/綾辻行人)
「時の鳥籠」(講談社ノベルス/浦賀和宏)
「ヴァリス」(創元推理文庫/P.K.ディック)
「夏と冬の奏鳴曲」(講談社文庫/麻耶雄嵩)
「月に呼ばれて海より如来る」(夢枕獏)
「地球暗黒記」(角川文庫/荒又宏)
「バガージマヌパナス」(文春文庫/池上永一)
「湖底のまつり」(創元推理文庫/泡坂妻夫)

<漫画>
「花男」(松本大洋)

<映画>
「フィアレス」
「フィッシャーキング」
「狼の血族」
「アメリカン・ビューティー」
「太陽の帝国」
「ブリキの太鼓」

<アニメ>
「少女革命ウテナ」
「めぞん一刻」


◆TRPGにおける「自由」−2001/11/24

 最近某所で話題になってますが、僕にとっては永遠のテーマなので、これを機会にここで論述してみようと思います。


1)「自由」とは何か?

 これは、人によって答えが違うので正しい答えなんてものは存在していません。あなたにとって「自由」とは何か説明することが出来ますか?

 以下は僕の考えた答えです。僕以外の人には効果がないので参考にしてはいけません(笑)。

<0>自分のあるべき姿を思い浮かべ、それを実現する

 自分が人からどう見えるのか、まったく自覚していない人がいるのには困ります。「自覚していない」と「気にしていない」は意味合いが天と地ほども違います(笑)。

<1>一切の先入観にとらわれないこと

 「先入観」ほど人の現実認識を歪ませるものは他にありません。あなたが信じている何ものかには必ず何らかの例外が存在し、その例外自体を信じている人がいます。「先入観」のいやらしいところは人の行動を本人の自覚なしに制限してしまう点です。まず自分の中にある先入観は何かを把握する必要があります。次に、必要があればそれを解消できるとより「自由」になれると思います。どうやっても解けないものも存在しますが(笑)。

<2>無法と自由は違う

 「無法」というのは、自分で自分をコントロールすること自体をも放棄することになります。それがあなたの望むあなた自身の姿ですか?

<3>自分を律する“法”は自分で決めること

 …何かよくある洗脳本みたいな書き方になって恐縮ですが、以上が僕の考える「自由」です。とりあえず自分なりの「自由」がイメージできていない人が「自由」について論じてみても無駄なことでしょう(w。


2)TRPGにおける「自由」

 1)に書いたことをただ単にそのまま当てはめるだけです。

<0>自分のあるべき姿を思い浮かべ、それを実現する

 PLとしてもPCとしても、まず自分がどうありたいかのヴィジョンが見えていないことにはお話になりません。

<1>一切の先入観にとらわれないこと

 先入観は自分の行動を拘束しますし、人の行動も拘束します。まず何が「先入観」なのか把握しましょう。あなたが信じている「お約束」なり「暗黙の了解」なりがあなた以外の人に通用する保障はどこにもありません。それが180度ひっくり返される状況は、TRPGでは「フィクション」を扱っている関係上必ず起こり得ます。

<2>無法と自由は違う

 自分の行動によってどのような影響が出るのかよく考えましょう。自分の意志でそれをやろうとしているのか、単に一時の感情でそれをやっているのか、自覚しましょう。一時の感情でやるプレイはあなた自身のコントロールから外れています。以後の展開はもはやあなたのコントロール下に置くことが出来なくなる可能性があります。その分岐点が「今」なのかもしれません。

 まあ、僕がGMだったら、以後理詰めで嵌めてどん底に突き落とすだけですが(笑)。

<3>自分を律する“法”は自分で決めること

 何かを選ぶ自由があるということは、同時に選ばない自由もあるということです。選ぶことが目的にかなっているのか、選ばないことが目的にかなっているのか、よく考えましょう。そして選んだ以上は、それはあなたが自分で選んだ道でであり、ルールですから、それに従ってください。もし破った場合、自分の言ったことを自分で破る人間は二度と信用されませんので(僕の経験では信用回復するのに最低1〜3年はかかると思ってくださいね♪)、肝に銘じてください。もちろん、信用を失うこともあなたの自己責任においてやるのであれば文句は言いません。

 もう二度とあなたとプレイしてくれなくなるかもしれませんが(笑)。


3)「自由」なTRPGセッションをやるための諸テクニック

<0>概論

 いきなりだが、真に自由なTRPGというものは実現可能であろうか?

 私の答えとしては、それはYESであり、NOである。

 TRPGのセッションにおいて完全にどんな行動でも採ることが出来、かつリアクションできる瞬間というものは存在しない。それは、PLの方でそもそも考えうる行動の選択肢がその知的能力によって制限されるからであるし、GMの方でも能力的に想像しリアクションできることに限界があるからだ。
 繰り返し言うが、そもそもPL自身がありとあらゆる行動の選択肢を思いつくことが出来ないのだ。GMの方でいくらありとあらゆる状況を想定して設定を考えたとしても、GMほど背景設定について知りもしないPLがそれ以上の細部まで想像をめぐらすことなど出来はしない。
 逆にGMの方でも、PLがそれ以前のどんな経験からかある選択肢を考え付いたことに対して、その背景となる経験/知識を共有していない以上、対応できることには必ず限界がある。

 そういう意味で、私の答えはNOである。

 

 しかし、原点に返って「TRPGにおける自由」というものを考えてみよう。

 あなたはどんな「自由」を欲していたであろうか?

 よく聞く話が、とある物語の1場面で主人公がある選択を行った。しかし「そこで別のこういう選択を採っていたらもっと話が面白くなっただろうに」ということを思ったことはないだろうか?

 TRPGでは実際そういう局面で、その「もっと面白い選択肢を選択できる」という自由はある。それにはいくらかプレイング上のテクニックを要するが、実現可能だ。断言するが、TRPGにおいてあなたが実現したいと望むようなことは凡そ何でも実現可能だ。実現するのに必要なテクニックさえ身に付ければ確実に。

 そういう意味で、私の答えはYESである。

<1>PCとPLの二元プレイの必要性

 さて、「自由さ」を目指してTRPGのセッションを行う場合に問題となるのは、

1)PLの能力的な限界
2)GMの能力的な限界

である。つまり、PLは自分の処理能力を超えたキャラクターはプレイできないし、そんな状況もプレイできない。GMも同様である。要するにプレイする人間の能力的限界で「それは出来ない」ということになる。

 ではどうすればいいのか?

 ただ単に「出来る範囲でやればいい」というだけのことである。あなたがやりたいと望んでいることはほとんど何でもその場にいるメンバーの能力の範囲内で実現可能だ。ただし、「やれる範囲内」でしかやれない以上、その姿は当初思い描いたのと違うイメージになるかもしれない。それについては諦めてくれ(笑)。TRPGはコミュニケーションのゲームである以上、一緒に参加したメンバーの影響でイメージが変わるのは当然のことである。むしろ、どう変わるかのかを楽しんだ方がいいだろう。もし、どうしてもイメージ改変が許せないのだとしたら、それはTRPGには向いていない。小説なり何なり、外部の雑音の入らないメディアで実現してくれたまえ。

 話が長くなったが(笑)、要するのはなしの分岐となる要所要所で「それは実現可能か?実現可能としたらどんな形になるのか?」を模索する必要が生じる。

 模索の方法としては、1つは完全にアドリブでキャラクターのロールプレイの中に織り交ぜて表現して見せるというやり方がある。これはとてつもなく難しい。実際の話、条件反射的リアクションの返せるPLは世間にたくさんいる。しかし、そのときのキャラのリアクションがストーリ上の重要な分岐であることを自覚し、更にその後の展開がどうなるかまで読み、それ用に他のPLのリアクションの仕方まで暗に口裏を合わせてプレイできるPLなど世間にほとんど存在しない。漫画などフィクションの世界ならしばしばいるがね(w。ジョセフとシーザーとか(謎)。

 そんなわけで、私としては、PLのリアクションによるストーリー誘導能力など端から信じていないので、ぜひPL発言のレベルで「やりたいこと」の調整を図ることをお勧めする。大半の場合、はっきり説明した方が手っ取り早く話が通じる。

<2>合議によるルール改変

 「自由」なプレイを目指そうとする場合、まず第1にその対応がGMの許容量を超える事態を事前に想定すべきである。所詮一人の能力である。限界は存在するし、それを超えることは実にたやすい。したがって処理能力を超えた場合にはその場のメンバーで対応を話し合った方が一人で解決しようとするよりもずっと負担が楽になる。やってみるとわかるが、こういう話し合いはすごく楽しい。

 「自由」なTRPGにおいてはキャラクターのロールプレイ以上にPL&GMのレベルで「こういう展開にしたい」「その実現のためにはこうしたらいいのではないか?」と話し合ってストーリーを創り上げていくことが楽しい。その際、以下の2つのレベルでのゲームが同時進行している。

1.PCレベルのゲーム
2.PLレベルのストーリー創作ゲーム

 「自由」なプレイは往々にして1のレベルのゲームの枠から逸脱する。そこで、2のレベルでPLの要求をいかに解消するかを考えることになる。その際1のレベルのゲームに新たなルール要綱を追加することによってゲーム続行されることがよくある。

 GMをする人間はGMの権限より上に「セッションのメンバー全員による合議による決定」という“場”が存在することを意識するといいだろう。そして手に余ったときにはそれを速やかに適用するようにすると、困ったときでも対応がやりやすくなる。

<3>相手の「暗黙のルール」を読み取る

 この辺から具体的なテクニックについて解説していくことにしよう。

 実際のところ本当に「自由」であったり「無法」であったりする人間は存在しない。GMが例え「自由」を実現しようとして可能な限り幅広い設定を考えたとしても、PLの方で「これはやってはいけない」と自ら規制をかけている。

 これは、使える。

 相手が自らにどんなルールを課しているかを把握すれば、そのアクションが読みやすくなるし、相手をコントロールしてうまく自分の望む展開に誘導するのもたやすくなる。

 で、具体的にどうやったら読み取れるかということだが、以下のような方法がある。

1)「これはやっちゃいかんよね」とPLが言っているのを聞き逃さない
2)「こういうときはこういう展開になるよなぁ」とPLが言っているのを聞き逃さない

 上記はいずれも受動的な方法である。上記以外にもPLの発言でそのPLの行動原理を読み取れることがあるだろう。GMをする人間は耳を研ぎ澄ましてPLの思想パターンを読み取ることが出来るとかなりマスタリングする上で助けになる。

 ストレートに

「どんなイメージでプレイしたいの?」

と聞く方法もあるだろう。仕事をやる上でも当たり前な話であるが、わからないことは手っ取り早く直接聞いた方がはやい。人にものを聞くのを恥ずかしいとか恥だとか考えている人間が多いような気がするが、そんな恥は無くした方が世の中を渡っていく上では楽になる。押し付けはしないけどね(w。

 もう少し上等なテクニックとしては、

「何をしてもいいよ」

という状況を敢えて作り出すというやり方がある。そういう状況ではPLの基本思想が明確になる。外部から与えられるルールがない場合には、人は自ら決めたルールに則って行動するものである。ここで「こういう情報が欲しい」と質問してくることもよくある。これは、そのPLが何を判断材料に世界を構築し、判断しているかを知る手がかりとなる。

 そういうわけで、「自由さ」を目指すセッションをするのであれば、PLの思想を読み取りその希望を汲み上げるために

「何をしてもいいよ」

という状況を作り出したほうが良い。ぜひやるべきだ(w。

<4>「無法」ではなく「選択」に展開をはめ込む

 さて、「自由」なシナリオ/セッションだからと言ってまったくストーリー上の指針がないわけでもない。いや、「キャラチャット」には指針が不要か(笑)。キャラチャットの場合、アドリブ能力&アドリブ用のデータだけ用意すればプレイできるしストーリー誘導のテクニックを駆使する必要がないので、ここで解説する技巧は不要だ。あなたがキャラチャットをしたいだけであるなら以後の話は無視してくれたまえ(w。

 さて、「自由」である上に更に「ストーリー性」まであるという贅沢なセッションをしたい場合(笑)、PLの要求を先読みする(あるいは事前に聞く)必要が生じる。つまり、PL&PCの「やりたい」と望んでいる先にそれが実現しそうなおいしそうな餌を置いておくのだ(笑)。出来ることなら、その場の気分でひねくれて別の選択肢を採ろうとしたときに選べるような展開も事前に用意しておくといい。

 そうしてストーリー上可能な分岐を明示しておけば、PLも選びやすいし、GMも事前に考えた設定に当てはめてリアクションしやすくなる。

<5>ストーリーに巻き込むための「引き」と「押し」

 <4>で書いたことは典型的な「引き」のマスタリングである。結局のところこれは「どのルールに従うのか?」をPLに選ばせていることになる。

 しかしそれでも乗ってこない人というものはいるもので(笑)、そういう人相手には逆にこちらから「押し」のマスタリングをしていくと良い。

 実際のセッションでここまでやろうとする場合、それだけでかなりの時間が経過することは覚悟しておいた方がいいだろう。私の考えとしては、そうやって調整していくこと自体が面白いと思っているので、あなたも面白いと思うならやってみるといいだろう。そう思わないならそもそも「自由」なセッションなど目指さない方がいい(w。

 さて、事前にPLの方で選択や提案の機会をあげたにも関わらず、最終的にこちらが「押し」の展開を入れて巻き込混ざるを得なくなった場合、PLの方に文句をいう権利は存在してないと思うのだがどうだろうか?(自分で展開を決める機会をあげたにも関わらずどれも選ばなかったし、自分で導入方法を提案もしなかったわけだからね。)

 ということで、私が「押し」の展開に入った場合には、以後一切の苦情は受け付けないことにしている(笑)。

<6>流動的な展開に対応するためのシーン分散型セッション管理

 これは一見PCに自由に行動させながら、実は思い通りの展開に持ち込むための詭弁的テクニックだ(笑)。

 以前「紙魚砂のシナリオの作り方2」でも書いたことだが、シナリオ上最低限必要なシーンを流動的に作っておく。場所や時間が変わっても実現可能なシーンにしておけばいい。そうしておいてPCの行動に合わせて、PCの行動する先で必ずそのシーンが起こるようにすればいい。

 補足として、ある程度シーンを分散して想定しておき、それぞれのシーンでやりたいことを絞った方がいい。その方が「やりたいこと」を実現できる可能性が高まるし、シーン別に展開に合わせて自在に調整して合わせて行けるようになって流動性が高まる。

<7>その他

 「自由」なプレイをしたいなら、もちろんGMにアドリブ能力が必要だ。アドリブに関しては「シナリオ構造とアドリブマスタリング」にすでに書いた。参考にされたし。何にしろアドリブするなら事前のデータ準備は欠かせない。アドリブ専用のデータの作り方というものもある。まあ、ランダムイベント表でも作っておけばいいんだがね。


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