←←


TRPG覚書−2000年1月〜6月−


◆深淵キャンペーン日記10−2000/01/09

 昨日は今年最初のセッションであった。
 年末最後のセッションのメンバーが思ったより進んでしまったので、今回のメンバー(年末に参加できなかったメンバー2人)には、歩調を合わせてゲーム内時間一日分だけやるつもりが、思ったより濃いセッションになってしまって一日が終わらなかった。

 予定では、あと1〜2回くらいで終わらないとさすがに話がだれてとりとめなくなってしまうので、そろそろまとめに入ることにした。実は裏では2つの教団(?)がそれぞれ微妙に似て非なる目的のために動いていて、かなりややこしいことになっていたのだが、PLもPCもそこまで全部理解しきれないだろうと踏んで、2つを強引にまとめてしまうことにした。その方が素直に話がつながるし。

 その関係で、以前断念した「さようなら…」というエピソードを入れることができた。縁故に「もう会えなくなるから…」とか言わせて切羽詰った状況にすると、さすがに一生懸命動き出してくれるらしい。これまでのぐずぐずもたもたしてたのが嘘のようにぱっぱと話が展開した。

 今日のPCは「吟遊詩人」と「まじない師」で、さすがにシティーアドベンチャーだと情報や゛つて゛が多くてそれほど非効率な行動はなかった(荒事はできんけどね)。前回は2人とも戦闘系で、戦闘系は情報が入りづらくて「何が正しいのかわからない」ので、力押しで行こうとして、はまって、苦しむことが多かったのとは対照的である。

 最終的な場面は、森の奥に目的のものがあるが、そこには幻の魔物が現れて行く手を阻むという設定で、夜二人はそこに向かい、まじない師は幻影にやられて気絶、吟遊詩人は何とか幻覚を看破して一人奥へ分け入っていった…というところで終わった。
 次回、吟遊詩人がどんな活躍をするかが楽しみである。

 結局、紆余曲折ありまくりで訳わからなくなりかけていたが、それでも序盤にイメージした通りの結末になりそうである。私の場合、PL/PCの様子を見て、NPCや設定と照らし合わせて「この辺で話がまとまりそうだ」と結末のイメージを決めるので、各勢力のパワーバランスや、基礎的な設定情報の与え方を間違えない限りはほぼ思ったとおりの終わりになる。が、途中どんな経過を通るかはPL次第なので、そこのバリエーションが「PLがGMを楽しませる」部分になるのだと思う。


◆キャンペーンの運営−2000/01/20

 キャンペーンはコンベンションのセッションと比べて運営が楽であるかというと、全然そんなことはない。コンベンションなどの単発のセッションでは、勢いやノリの力を借りて多少設定やストーリー的ほころびがあっても、その場しのぎで取り繕ってごまかすことができる。何だか悪い言い方をしているが、「きちっと終わったという印象を与える」「全体がそれなりにメリハリのある形になっている」ということさえ満たしていれば、些細なことは問題にならないのが単発セッションである。逆に言うと、些細なことは捨ててでもビシッとまとめることができるかどうかというのが、単発セッションの運営がうまいかどうかということにつながる。また、コンベンションだと初対面の人と上手く付き合うことについても考えなくてはならないという難しさがあるが、今回の論とは外れるので割愛する。

 キャンペーンの運営の仕方は単発のセッションの場合とはかなり異なる。1回1回読みきりのようなスタイルの場合には、単発セッションと大して変わらないのだが、全体として一つの大きな物語となっているような大河ドラマ的セッションの場合にはかなりやり方が変わってくる。
 まず第1に、

「1回1回のセッションの区切りが不明瞭になる」

 これは利点である。もちろん1回ごとにそれなりの盛り上がりを向かえ、決着が付いた方が良いには違いないのだが、それに縛られるのは良くない。

「時間はいくらでもある」

 そう、コンベンションなどのように時間に追われる必要性はキャンペーンにおいて、まったくない。プレイヤーのノリや勢いをそいでまで、GMの想定した「今回の結末」とやらに強引に導こうとするのはまったくの無駄である。ゆったり、時間に余裕を持ってプレイするべきである。
 セッションにおいて「プレイヤーが乗っている」というのはいちばん良い状態である。それは絶対に壊してはならない。もしそういう場面を作り出すことができたら、できる限りそれを持続し、さらに良い展開に転がっていけるよう、細心の注意を祓うべきである。その際、「制限時間」などという些細な問題は気にするべきではない。たとえ途中で終わってしまったとしても「乗った」状態で終わっているので、それは次回のノリにつながる。

「1回1回の反省が大事」

 キャンペーンでは1回1回のセッションを見ていけば、成功することも失敗することもある。
 完全な成功などというものは存在しない。たとえうまくいったように見えても、どこかしら抜けていた部分や問題があるはずである。そしてそれはあとからじわじわと効いてきて、最悪、キャンペーン全体を崩壊させかねないような問題になることがある。(ここが単発セッションとは明らかに違う)そういう不安材料は大きくなる前にきっちり解決しておく必要がある。
 逆に、完全な失敗というものも存在しない。どんなにひどいセッションでもどこかしら面白い部分があったはずである。そしてそこに問題解決の糸口がある場合が往々にしてある。

「挽回は、何度でもできる」

 プレイヤーとGMの気力が続く限り、いくらでもやりなおしは可能である。あきらめない限りは。

「自由度が高い」

 これは理想であるが、キャンペーンの方が単発セッションより何倍もプレイヤーの言い分を聞き入れてセッションに採り入れる余地がある。もちろんGMはみんなの意向を取り入れようとすればするだけだんだんと運営が難しくなっていく。が、それについて考える時間は、単発セッションの何倍、何十倍も存在するはずである。難しいが、ぜひやるべきだと思う。

「大きな展望が必要となる」

 細かい部分に付いては、はっきり言うならその日やる分だけ覚えておけば十分である。それよりも「全体としてどんな感じに結末を迎えそうか」「今回のセッションによってそれがどれだけ変わったか」を見る目が必要である。最初考えた結末などというものは、あくまで「指針」に過ぎない。それはPCの動向によって変わる。
 だが、それにしたって「まったく違う結末」になるのでは「シナリオが違う」ということになってしまうので、いちおう指針を元にある程度導く必要性は出てくる。(ただ、導いてもどうにもならない場合もある。その時はあきらめて結末の再考案をした方がいい。)が、細部はPCに合わせて変えるべきである。

「持続力」

 最後までやり続ける精神力が必要になる。これがかなり重要。

「終わらせる力」

 どこかで必ず終わらせるべきである。終われば、後に残る。

「過程が大事」

 TRPGでは過程が大事であるといわれるが、キャンペーンはその最たるものである。もちろん終わりがきれいに終わるに越したことはない。が、そこにたどり着くまでにどのようにしてきたかがコミュニケーションの過程であり、苦しくも楽しい。

 …とまあ、キャンペーンについて意識していることをだーっと書いてみた。正直私がシナリオを考えると単発セッションに収まることが少ないので、これまでほとんどキャンペーンばかりやってきた。キャンペーンだと、かなり深い話ができるし、さまざまな「過程」を思う存分できるので好きである。が、プレイヤーはこちらの思惑など関係なしに好き勝ってやろうとするので、それを何とか取り入れるのにずいぶん苦労した。最近は「終わり」というものに、こだわりがきれいさっぱりなくなったので、むしろ「プレイヤーがこの先どうしてくれるんだろう」という点が興味深い。
 が、このところずいぶん素直なプレイヤーばかり増えてきて、しかもそういうプレイヤーは「GMに素直に従っていれば大して頭を使わなくても何とかなるさ」と考えている場合が多くて、実につまらない。こういうプレイヤーはただの「お客さん」で、GMに何も与えてくれないのである。一方、自分なりのイメージをもって行動しようとするプレイヤーは、確かに最初合わせるのが難しい(最近はそれ自体を楽しめるようになった)。が、うまく合わせれば彼〈彼女〉のイメージを垣間見させてもらうことができる。

 某コンベンションでキャンペーンをやらせてもらったとき、「とぐろ教」(笑)なる宗教の創始者になろうとした人がいた。もう、本当に馬鹿なことを山ほどしてくれて、すっげえ笑えた。自分の出番以外、いつも寝ている某主役をやってくれた人もいた。自分の出番はいつもきっちり決めてくれたし、最後は某人物の名前を絶叫してくれてた。他にもいろいろいたが、やっぱり私はあまり素直でないプレイヤーとやっている方が楽しい。何が出てくるかわからん。(笑)


◆「ああ、わかった」−2000/01/21

 TRPGはコミュニケーションのゲームである。こちらの意図が最初から本当に伝わることはない。ので、あの手この手でそれを伝えようとすることになる。
 そしてそうした過程を経て、プレイヤーが

『ああ、わかった』

という表情をした時、その時の笑顔を、私は忘れることができない。


◆最後の手段−2000/01/26

 TRPGの"引き"の手法で一度使ったら二度と使えないが、とてもよく効く方法がある。それは、

「もうやめよう。…」

以下、プレイヤーが考えているであろう「もうやめたい」理由を全部NPCに言わせるという方法である。全部言ってしまうと却ってすっきりするというか、「消極的になってしまう理由」をすべて吐き出してしまったあとなので、反対に「積極的になれる理由」が浮き彫りになって意外とすんなり以後の話が続けられる。
 2度は使えないし、「もうこれでやめてしまってもいいや」という覚悟もある程度必要となる。


◆深淵キャンペーン日記11−2000/01/26

 先週は仕事でプレイできなくて、二週間ぶりのプレイだった。連絡不行届きで2名の参加だった。(1人は仕事で来れんかったらしい。もう一人は、本当に連絡してなかったせいで来なかったのだろう。)

 佳境も佳境、ついに封印の"一つ"が解き放たれた。
 「やめておけ。おまえは間違っている。」とさんざん言ったのだが、「世のため人のため」というのは縁故には勝てんらしい。
 やっとシナリオ全体の仕掛けにプレイヤーが気付きだした。相変わらずだが、思いっきりあからさまにやっていても、プレイヤーというものは周りが見えていなくて、重要なことには気付かないものである。
 「゛あれ゛は夢だったとしか思えない。あるいは゛これ゛が夢なのか。」「どちらが夢であろうと、そんなことはどうでも良いのではありませんか?」

 次回は最終回。終わらせます。全員ちゃんと集まれると良いが。

 そう、最近プレイヤーがすっかり悪に染まってしまって。時には悪の側に立つ者がいてもいいが、皆が皆そうだと歯止めが利かなくって、やはりバランスが大事だなと思う。今回はGMであるにも関わらず、本腰をあげて「正義の味方」をやって邪悪なPCと対決しなくてはならないようだ(笑)。


◆深淵キャンペーン日記12「最終回」−2000/02/03

 2000/01/29に最終回のセッションを行った。大学のサークルで、半年ごとにグループを作ってキャンペーンをやっているのだが、もう今の時期は後期のテスト期間に入ってしまっているし、それが終わると休み…というわけでここらでけりをつけないと、しばらく集まるのが難しくなるということで今回で終わらせることにした。
 残念ながら連絡がつかず、全員は集まることができなかったのでGMの私や、他のプレイヤーでプレイヤーのいないPCを担当した。

 話にけりを付けるため「正義の味方」とでもいうべきキャラクターを前回のセッションのPC(騎士)から一人選んで登場させることにし、悪の道をひた走るPCたちの邪魔をさせた。


 前の戦いで死んだ仲間たちをよみがえらせようとしている騎兵がいて、そのために(と信じて)封印を解き放とうとしていたのだが、

『それは嘘だ。そうやっておまえの望みがかなうと言ってその力を利用するのがあの女の手だ。
 おまえは騙されている。』
『それが正しかろうとそうでなかろうと、おまえはそれを信じたがっているだろう?
 いいかげん、目を覚ませ。』

と、正論で説得したが納得せず、

『どうしても行くと言うのであれば、俺を倒してから行け。』

と、一騎討ちすることになった。
 結局、きわどいところであったが騎兵はその騎士に倒された。

「すまない…おまえたちを助けることができなかった…」


 「封印の破壊者」の運命を持った吟遊詩人は恋人のくれた魔法の武器を使ってついに封印を解き放った。

『体をよこせ!』

 そこから現れた存在の声を振りきって、彼はただひたすら逃げた。
 しかし彼の体はすでに、魔族によって尋常ならざる力を得ていたが、その代わりに二度と陽の光を浴びられぬものになってしまっていた。
 彼は自分の恋人に会えると信じてそれを行ったのだが、結局それがかなえられることはなかった。


 「双子の呪い」を解こうとしていたまじない師は、町のはるか上空、そこにあった"鏡"の向こうに、探し続けていた双子の片割れを見出した。

『どちらが本物かここで決めよう。
 …この鏡を破壊して、もしそちらが鏡の中の世界であるならば、その瞬間、おまえは消えてなくなる。』

「いや、この剣でどちらが本物か決めよう。勝った方が本物だ。」

…………………

 勝負は一瞬にして決まった。
 剣が一撃でその男の胸を貫いた。
 生き残った男は笑みを浮かべ、

「これで俺が本物、と言うわけだ。」


 あと一人は行方知れず。


 いろいろ詰め込み過ぎて消化不良な感じだったが、とりあえず最後に主要キャラクターをぶっつけて、場合によっては戦闘に持ち込んでいったら、何とかまとまった。
 プレイヤーにはご苦労様と言いたい。
 深淵でキャンペーンと言うと、PCを継続して使うのが難しい場合が多いし、プレイヤーも継続してプレイする必要があまりないのでGMが一人勝手に「キャンペーンだ」と宣言して継続して同じ設定NPCなどを使っていくスタイルになると思う。で、このキャンペーンもそんな感じでとりあえず「黒剣」「翼人」がテーマのシナリオはやったので、あと11の星座がテーマのシナリオをプレイして完結ってことにしたいなーとか考えているのだが、さて、プレイする機会はあるかな?


◆「タブー」のコントロール−2000/02/16

 生まれたばかりの子供をのぞいて、ほとんど誰もが「タブー」というものを持っている。
 まあ、「エロ・グロ」の領域の話には数々の多彩なタブーがあって、それは人それぞれであるし、「死」や「馬鹿馬鹿しいこと」でも「軽々しく口にできない」「恥ずかしい」と感じるその時点ですでにタブーである。もっと身近な例だと「人と人との距離感」ですらもタブーである。たとえば「相手の1メートル以内の範囲に近付く」「相手の体に触れる」「相手に話しかける」など、これらすべては相手と自分の「タブー」の領域を侵す行為である。
 極端に言えば、この世のあらゆるコミュニケーションとは「タブーを侵すこと」であると言うこともできる。
(正確なことは心理学関連の本など読むといいでしょう。)

 ところで、こういった「タブー」というものは、その人のそれまでの人生や人となりに起因していて、その多くがほぼ「無意識的」なものであり、いざそういう場面になったときに初めて明らかになる。そしてそういうタブーの領域を意識的に乗り越えられるようになると、他にはないような「開放感」が得られる。これは、ある程度意識的にそういう場面に自分を追い込むことで「慣れ」ることができるようになる。よく作家などが「感性がすり切れた」などというが、これは「慣れ」過ぎてしまったことによって起こる弊害である。

 さて、TRPGにおいてこういった「タブー」がどのような効果をもたらすのであろうか?

 まず第1にそれは多く「無意識的なもの」であるために、リアクションが条件反射的になり、画一的になりやすいという性質を持っている。要するに「反応が読みやすい」。しかも潜在的に深いレベルでそれが刻まれている場合には「考えても、同じリアクションをしてしまう」。
 GMは、結局のところプレイヤーを自分のコントロール下に置かなければセッションを成立させられない。だから、これをコントロールし、プレイヤーの行動を操作できれば、コミュニケーションにおいて「相手の首根っこを掴んだ」も同然と言っていいくらいの優位を得たことになる。

 第2に、それはただそれだけで相手に"ショック"を与える。良かれ悪しかれ印象に残るということである。

 第3に、その"一線"を越え、しかもそれが互いに共有した認識であることが確かめられた時、その"ショック"は"親密さ""快さ"に変化する。より深いレベルでのコミュニケーションが成立するのである。そしてこれは誰もができるわけではないので、「ここでしか得られない」という価値を付加することすらできる。

 ………………

 ところで、この方法論を用いる場合には、自分自身の「タブー」の領域を把握することが重要である。

 プレイヤーを追い込む場合、結局のところ裏では「相手と自分とどちらがより深いところまで耐えられるか」という競い合いになる。ここで相手より耐性があれば、相手を「不覚にも、衝撃を受けてしまった!」と、させることができる。失敗すれば「物足りないなあ」と言われることになる。

 そこでまず、自分の得意な分野・苦手な分野を把握し、得意な方向に進むよう、うまく誘導できるようになるといい。

 よく作家の典型的な作品に対し、その作家の名前を冠して『〜節』と名付けられることがあるが、これはその作家が『感動させるパターン』に導くスタイルを持っているということであり、その方面に関して豊かな表現力を持っているという証である。それはつまり、その方面に関して広い感性の領域を持っているということでもある。

 次に、自分の感性をその方面のより深いレベルにまで慣らしていく必要がある。この辺は自分で実際に広く作品を見て、慣らさないと駄目である。

 ………………

 ちなみに私の場合、「死」「悲しみ」「精神的抑圧」などに関してはかなりの耐性ができていると思うので、そちら方面に関しては得意である。よってマスタリングもそういう方向に進むよう積極的に誘導する。TVなどでよくそういう辛い場面が出てくることがあるが、最近は慣れすぎてしまって逆に見ていると笑ってしまう。『そう持ってくかー』という感じである。
 一方、「エロ・グロ」「肉体的痛み」「性的なもの」などに関することは苦手なので、どちらかというと避けている。とりあえず、プレイヤーが話すのを聞く分には別に何とも思わないので、放って置いているが。
 最近は、だんだんとこちら方面にも耐性ができて、慣れつつあるんだけどね(笑)。

 ………………

 ここまで、良い面ばかり強調してきたが、実際にうまくやるのは実に難しい。失敗すれば相手に不快感を与えてしまったり、相手が引いてしまったりする。
 しかしそのリスクを背負ってもやるだけの価値はあると思う。
 うまくいけば少なくとも数年、永ければ一生、その記憶に残るくらいの衝撃を相手に与えることができるのだ。


◆「放課後怪奇倶楽部」−2000/02/16

 去る日曜日(13日)、昔の仲間と会ってTRPGをやった。
 (深淵コン、いつか行きたいと思っているのだが、どうも予定が入ってかちあってしまうことが多い)

 悪名高き「放課後怪奇倶楽部」である(笑)。

 「放課後怪奇倶楽部」の何と言ってもネックなのはそのベタベタなテンプレートの数々であるが、ルール的にはほとんどクトゥルフと変わらないので、クトゥルフのルールも持っていって結局そのルールで普通にキャラは作成した。シナリオもベタベタでどうしようもないのばかりだったので無視し(笑)、初心者マスターによる(?)リプレイがいちばん内容的におもしろかったので、ちゃっかりそのアイデアを拝借させてもらった。設定はほとんど使わなかったが、それでも目に見える形で校舎や町並みがの絵とかあるとぐっとイメージしやすくなり、その点では役立った。

 「学園もの」というと個人的には好きでない(嫌悪すらしている)のだが、なんだかんだ言って大抵誰でもその経験はあって、互いに深いところまでイメージしやすいというのは良い点である。プレイした感じではその辺りお互い伝えやすくて、舞台設定として悪くなかった。

 話の内容は、そのうちシナリオとして載せることにしているので詳しくは書かない。
 もともと「雪花」という名のサイケでジャパネスクな同人RPG用に考えたシナリオだったのだが、そのシステムが手直し中だということでとりあえず今回はやめて、同様のスタイルを再現できそうなシステムということで「放課後怪奇倶楽部」を選んだ。それにあたって、「雪花」ではPCの設定として考えていた部分をNPC用にし、そこにPCたちを引き込む形の話にした。

 TRPGの中での「ストーリー」というものに関して、かつてはGMがNPCを主体に考え、それをプレイヤーに伝えて感情移入させるというスタイルが主流であったと思うが、最近ではシステム的にサポートされながら「当事者」となってストーリーを実感できるようになってきている。「雪花」と「放課後怪奇倶楽部」では、明らかにこの辺りの"ノリ"が違っていて、シナリオをコンバートする際に大きな障害となった。

 シナリオ中、キャラクターの内面の深い部分を表現するために架空の世界を作って、PCたちにそこへ向かってもらうことにしたのだが、「放課後怪奇倶楽部」や「クトゥルフ」などの“他人行儀なシステム”では、「帰ってこれる保証がない」「現実的に考えたらそんなことはしない」「そこまでする理由がない」という面倒な問題が多々あって、それぞれ解決して行かなくてはならないのでなかなか難しい。普通そういう場合、事前にあれこれ考えておくものだが、結局のところ「プレイヤー全部がどういう展開の持って行き方をすれば納得してくれるのか?」という問題であったので、それならプレイヤーに話し合ってもらうのが一番だと思い、充分時間にも余裕があったので、あれこれ口出しせずにプレイヤーに議論してもらって、それにこちらが合わせるというやり方を採った。
 一方キャラクター主体の“主観的なシステム”の場合には、上のような問題は一気に単純化する。「危険」と、どうしてもそうしたいという「欲求」を単純に1対1で比較するだけですむからである。しかも、結局どのような行動を選んだとしても、キャラクターの内面を解った上で判断しているはずなので、「必ずプレイヤーも納得する」…はずだ。(「ストーリー的欲求」の幻影が見えている人には、必ずしも納得できないかもしれない。が、私のスタイルではその辺りのことは「切り捨てている」ので、単純に「スタイルが違う」としか言いようがない。)

 セッションの結果はまあまあ。投入したアイデアの絡まり具合がなかなか絶妙で(自画自賛)、小品ながらも割と良い話になった。暗示的にきれいにすっきりまとまる(なれてない人が見ると「もやもやしてすっきりしない」)話はかなり自分好みであった。

 プレイヤーの話だとあと一ひねりくらい欲しかったようだが、あと一ひねりすると1日では終わらなくなるので、まあこんなものかと思う。それより、もう少しぐずぐず、くどくやって、展開を重くした方が良かったかもしれない(話をあっさり落としてしまったので…)。

 久しぶりだったが、妙にお互いの呼吸が合わせられたのは、やはり昔さんざんやったからであろう。思ったよりずいぶん楽にマスタリングできた。
 何はともあれ、楽しい一日であった(プレイヤーに感謝)。


◆「サクラ」−2000/02/22

 TRPGで「サクラ」を立てるのは実に有効である。というのは、「サクラ」は、実際にプレイすることでGMのセッションの「遊び方」をわかりやすく他のプレイヤーに伝えてくれるからである。「サクラ」がいることで話の導入など、自分のスタイルにプレイヤーを引き込むのに要する労力は大幅に減り、GMは、より自分のスタイルを研ぎ澄ましていくことに専念できるようになる。

 コンベンションなど、初対面のメンバー相手にやる場合には自分のやり方に波長の合う人をすばやく見極めて、その人を糸口に他のメンバーも巻き込んでいけると良い。(慣れないと難しいが)
 いつものよくやるメンバーとの場合には、その中に一人二人自分のスタイルの理解者がいれば、より深いところまで突き詰めていけるし、長くいっしょに楽しんでいける。

 ということで、GMをやり続けようという人は身近なプレイヤーを洗脳して「サクラ」にしましょう(笑)。


◆「良いシステム」に関する誤解−2000/02/22

 プレイヤーをやっている人からすると、「良いマスター」の元でプレイしたなじみのシステムは皆「良いシステム」ということになり、半ば無条件にそれが受け入れられてしまうことがよくある、と思う(経験的に)。

 これは、かなり厄介な問題である。
 なぜなら、よく練りこまれていない片手落ちなシステムでも、数さえ売れば、それに比して「良いGM」の参入も増えるので、結果として「良いシステムだ」と信じるプレイヤーが増えることになる、という理屈が成り立つからだ。
 つまり、単純に量の問題となってしまい、質(≒割合)が問われない事になる。

 結果、TRPGのシステムを売る際には、その質よりも、表層的な訴求力(絵が万人受けする、題材が万人受けするなど)ばかりに目が行くようになる。もちろん売る際にはこういった要素も必要であるが、そこばかりに着目して質的向上をしないと、早々に飽きられ、廃れていってしまうことになる。


◆「シナリオのためにシステムを選ぶ」−2000/02/22

 私の感覚だとごく当たり前の話なのだが、GMはシナリオのためにシステムを(よく吟味して)選ぶべきである。(逆もまた然り)

 TRPGのシステムは不完全で、その表現力には限界がある。

 システムに合わないシナリオをやれば、当然どこかしら破綻する。そういう時、ノリやアドリブ、ローカルルールなどでごまかしごまかしプレイすることがよくある。これは、ごく内輪でならば通用する。しかし、そうでないところでは難しい。一次しのぎで整合性が取れていないことが多いため、その方面に関してより突っ込んだプレイは出来ない。だからと言って「そんなものだ」と、そこで思考停止してしまうのは、TRPGによって得られる「楽しさ」を一つあきらめたことを意味し、それは不幸とさえ言えると思う。

 シナリオのテーマに合わせてシステムを選べば、より深いところまでルールにサポートされながらゲーム上の表現(「場面」「緊張感」「リアリティ」などなど)が出来るようになる。システムにサポートされた上での深い表現というものは、明確にシステマチックに了解され、共通認識される。そしてその共通認識は「共感」へと昇華する。


◆「シナリオのためにシステムを選ぶ《実践編》」−2000/02/22

 昨日は、実際には役に立たない(笑)理念的な話をしたが、今回は実践的な話を書こうと思う。

1)「システム→シナリオ」の場合

 まず、システムを分析する必要がある。私の場合は以下のようなことに注目する。

・「戦闘」ルールのスタイル・想定されている舞台・システム全体からの位置付けなど

「リアル指向−ヒーロー指向」
「ダンジョン向け−フィールド主体」
「個対個−多人数」
「戦闘に特化されている−戦闘ができる−おまけ程度−できない」
などなど

・「人間関係」のシステム上の取り扱い

・「個人設定」のシステム上の取り扱い

・システムが推奨するテーマ・世界観

 …ここで気を付ける点は、「できないことは無理してやらない方がいい」「できることは、どこまでルール上再現できるか確認しておく」といったところ。「無理してもこのシステムでこれがやりたい〜」という場合には他のルールとの整合性・バランスを取る必要があり、そのための準備・検証が必要となる。

 いずれにしろひとつのシステムでできることに限界はあるので、(何でもかんでも追加ルールを作って再現していこうという思想のAD&Dは別)それ以上のことをやりたいのであれば他のシステムに乗り換えた方がいいと思う。

2)「シナリオ→システム」の場合

 シナリオ上「何をしたいか」を見極めることが重要である。

 戦闘がしたいのか、PCのユニークな設定をセッション上で動かすことを楽しみたいのか、PC同士・NPCとの人間関係・会話を楽しみたいのか、ある特定の世界観を楽しみたいのか、ある一定のテーマを楽しみたいのかなど。GMは少なくとも「それができるシステム」を選ばなくてはならない。可能ならば、そのやりたいテーマの深いところまでルール化されているシステムを選ぶとより良い。

 ちなみに私の少ないレパートリーの中でのシステムの選び方は以下の通りである。
 それぞれの「遊び方」に対応する「ルール」を明確に説明できれば良い。できない場合には、実際その場面に行った時に処理に困ることになる。

「深淵」
・ 1対1主体の戦闘を楽しむ(戦闘ルール)
・寿命によるヒロイックな戦闘・アクションを楽しむ(戦闘ルール・寿命ルール)
・人間関係を楽しむ(縁故)
・キャラの設定(運命)を楽しむ
・場面挿入(夢歩き)を楽しむ
・夢を楽しむ(夢歩き)
・過酷な世界・悲劇を楽しむ(世界設定)

「B/Fローズ」
・魔法を楽しむ(魔法ルール)
・武術などによるヒロイックな戦闘を楽しむ(武術ルール・感情ルール)
・感情表現/その“ままならなさ”を楽しむ(感情ルール)
・独特の世界観を楽しむ(世界設定)
・広い世界の風土を楽しむ(世界設定)

「クトゥルフ」
・「狂気」を楽しむ(正気度ルール)
・「恐怖」を楽しむ(正気度ルール・世界設定)
・現実“的”な世界を楽しむ(世界設定)
・謎解きを楽しむ(世界設定・システムテーマ)

 あと、やりたいことが増えればそれに合わせてレパートリーを増やしたいと思っている。前からやりたいのは「純和風の(ヒロイックでない)幻想的な世界」なのだが、良いシステムはいまのところ見つかっていない。ほかに、ギャグなレパートリーということで「パラノイア」をそのうちやろうかと画策している。


◆「口がうまい人が勝つ」−2000/02/29

 TRPGにおいて「口がうまい人が勝つ」という場面がある。これは数字で表記できず、純粋に話術のうまさというプレイヤー自身の能力に依存するため、あまり良くないと言われることが多いように思う。

 が、実際には、そこでは「会話」という名のゲームが成立している。そして数字には表されないが、経験によって各人の能力は確実に上がっていく。会話がうまくならなくとも、例えばルールを良く把握して「戦闘」のやり方がうまくなるという状況もある。これも、結局個人の「ルール把握能力」に依存している。
 つまり、「会話が上手くなる」も「ルール運用がうまくなる」も経験/知識に依存するという点は全く変わらない。

 ところで、戦闘などの場合には、明確に記述されたルールに基づいた絶対的な基準がある。「会話」の能力は参加メンバーの間の相対的なもので、メンバーが変わると力関係が変わる。しかし一方、会話の上手い下手はシステムに依存しない。
 それぞれ一長一短があるのだ。

 また、会話というものは潜在的なゲームと言っていいし、その要素を完全にTRPGから切り離すことは不可能である。

 結局何が言いたいかというと、「口が上手い人が勝つ」でもいいじゃないかということである。どうせ切り離すことはできないし。だったら最初から「口の上手い下手は、判定に影響を与えるよ」と宣言しておけば、プレイヤーは意識してGMを説得するために考えるようになるのではないかな?

 …それで、こういったゲームが面白いかといえば、面白い。実際、意識していればだんだんと上手になっていくのがよく分かる。明らかに「数字」に依存しない部分での問題解決能力が上がるのである。

 とは言っても、誰もが「会話」のゲームを楽しめるわけではないようなので、やり方には気を付けねばならない。ひとつの方法としては、あらかじめ「そういうスタイルでやるよ」と宣言しておくというのがある。もう一つは、GMがわりと無意識にやっていることが多いのだが、セッションの中の一部をそういう基準で判定する“場”にするという方法である。こちらの方法は、例えば戦闘では役に立たなかったキャラクターに活躍の場を与えるとか、単純にシナリオの場面のバリエーションを増やすとかに使える。


◆「シナリオの難しさを時間に換算する」−2000/03/13

 TRPGにおいて、より伝えるのが難しい内容をやろうとする場合、その「難しさ」を「時間」に換算する必要が出てくる。

 まず前提として、TRPGはコミュニケーションのゲームであるから、GMは自分のやりたいことをPLに伝えたいという意識が必ず存在している(ということにしよう)。
 必ずしも全員に伝える必要はないし(そんなことはできない)、理解しようとしない相手にその努力をするのは無駄だが、少なくとも前向きな相手に誰一人として自分の伝えたかった内容を伝えられないのだとしたら、それは独りよがりでしかないということになる。だから良心的には、せめて1人にはその内容を伝えたい。

 難しい内容をやろうとするのであれば、それだけ手間と時間がかかる。学校の授業と同じである。3平方の定理を理解し、自力で考えて証明できるまでにどれくらいの時間がかかったであろうか(試したことはない?)。

 ところで、実際世の中のコミュニケーションの大半は誤解と思いこみでできあがっている。相手の既成概念からはずれるようなことを伝え、理解させることはとても難しい。そのためには問題を解体し、単純なステップをいくつも踏んでようやく「理解」に達することができる。

 TRPGのセッションでは、現実の問題として、時間が有限である。コンベンションなど1日でやってしまおうという場合にはさらに限られてくる。その中で自分の伝えたいことを伝えるのに充分な時間は確保できているかどうか考えるのは、必要であろう。よくある間違いが、シナリオ上・セッション運営上、やるべき場面(戦闘など)の数については考えているけれども、その意味内容をプレイヤーが理解する時間を考慮していないというようなものである。その時間を考慮せず強引に先に進ませようとすれば、消化不良になるのは当然である(まあ、「わけがわからない」とPLを幻惑している隙に“はめる”という手もできるけれども(笑))。

 …さて、ここまでの論を逆に言うなら、「難しいことをしたいのであれば、そのぶん時間と手間暇かければいい」ということも言えるのではないだろうか。
 この考え方はかなり有効で、キャンペーンなど長期にわたるプレイで時間が十分ある場合には思い切っていろいろ凝ったこともできるし、1日のセッションでも、その問題の焦点を絞ってPLが考える時間を十分確保できるなら、実現可能ということになる。

 補足として、PLの「理解力」に関する人間的許容量の限界、緊張感を持続する「精神力」の限界というものも存在しており、それらを越えて何かをしようとするのは、ほとんど「体質」「生理」的な問題で無理なのだが、そこまでやろうとする人はそれほど多くはないであろうということで、今回の論からは割愛する。


◆「情報の管理」−2000/04/07

 TRPGのマスタリングにおいて、情報の管理は極めて重要である。
 まず、

・PC(たち)が何を知っていて、何を知っていないか

が重要である。PCというものは、知っている情報を元に動くものなので、もしその行動をコントロールしたいのであれば、それに必要な情報を与えなくてはならない。
 単純な例として「敵を倒す」ということをPCにさせるためには、

1)その「敵」は、PCに、直接的・間接的に害を与える。
2)その敵はPCに倒すことが可能である。
3)「倒す」以上(以外)の有効な現状打開策は存在しない。

という最低3つの情報をPCに与えなくてはならない。
 情報が足りない場合、

1)害をなさない相手は、そもそも倒す必要がない。
2)倒せないような「敵」からは逃げるしか手がない。(あるいは討ち死にするか)
3)別に倒さなくとも、話し合いで解決できるかも知れない。

といった、当初想定した筋道とは違う抜け道が生ずる。

 GMがアドリブの能力に長けていて、さまざまな予測不能の事態にも対処するだけの力量があるのであれば、わざと情報を欠落させて、抜け道を残しておくこともできる。(その方がPLの側からすると「自由度が高い」ということになるであろう)

 そうでないのであれば、自分の力量で処理しきれる程度に展開の幅を狭めるために、分岐・抜け道をふさぐための情報をあらかじめ張り巡らせておいて、その範囲から外れそうになったときにその否定的な情報を与えて、PCに「道から外れる」のを思いとどまらせるという手が使える。
 それをよりうまく自然にできるようになっていくのが「うまいマスタリング」と世間では以前、言われていた(と思う)。が、それは私は、マスタリングの一手法に過ぎないと考える。GM主体の、不確実性を極力廃してきちんと構築されたゲーム空間を作り出そうというスタイルである。これを端的に形容するなら「内を向いた構築主義的マスタリング」とでも言えようか。

 他方、PLとGMが感性でコミュニケーションを取る「外を向いた発想主義的マスタリング」というものも存在する(私がそうだ(笑))。
 このスタイルの根幹には、

「TRPGの中の<物語>は、PL(PC)の介入があって初めて完成する」
「シナリオの中の物語は、あらかじめPL(PC)が介入することによって初めて未決定な部分が決定されていくように作った方が、<物語>の生成に自分も参加しているのだという実感が高まって、面白くなる」

という思想がある。

(話が脱線してしまった(笑)。)


◆「TRPGのゲーム性における戦略/戦術」−2000/05/21

 シミュレーションゲームで戦略と戦術の違いは何かと問われれば、こんな説明ができるであろうか。

 まず、A国がB国を攻略しようとしているとしよう。
 その際「戦略レベルのゲーム」と言えば、「どのような方法で攻略するのか」(武力・外交・経済力・プロパガンダetc...)、もう少し視野を狭くするなら「どこから攻めるか」といったあたりが、「戦略レベルのゲーム」と言える。要するに「手段を選ぶ」段階。
 「戦術レベルのゲーム」とは、すでに手段や具体的な目的が確定したところで、「いかに迅速に・効率よく目的を達成するか」を考えるのが「戦術レベルのゲーム」と言える。

 では次に、これをTRPGのシナリオに当てはめてみよう。

 その場合、シナリオのテーマ・スタイル自体にゲーム的な駆け引きがあるのが「戦略的ゲーム性を持ったシナリオ」ということになる。何か目的があったときに、それを達成するための手段を選ぶことおよび、手段を選ぶ際の駆け引きなどがこの段階でのゲーム性。
 目的や手段が、すでにある程度確定していて、その与えられたものを利用していかにうまく立ち回るかを考えるのが戦術的ゲーム性。

 ちなみにいわゆる「ストーリーシナリオ」にゲーム性はあるであろうか?

 ストーリーの展開に分岐があって、そこで選択できるようなタイプのシナリオの場合には「戦略的ゲーム性がある」と言えると思う。
 では、ストーリーは確定していてほとんど選択の余地のない場合にはどうか。その場合「戦略的ゲーム性」は存在しない。しかし、「いかに効率よく、迅速にこなすか」というところでの「戦術的ゲーム性」を取り入れることができる。

 さらに言うなら、どんなシナリオにでも適度にゲーム的な部分を取り入れるだけで「戦術的ゲーム性」を導入することができる。一方、「戦略的ゲーム性を持ったシナリオ」は、全体の設計自体にゲーム性を付加して考えていかなくてはならないため、作るのがかなり難しいのではないかと考えられる。


◆「普遍的な面白さ」−2000/05/21

 TRPGは「面白ければいい」と言われることがある。これが正しいかどうか、微妙なところだと思う。だが、正しいのだとすれば、TRPGは必ずしも「ゲーム」でなくてもかまわない。

「TRPGはゲームである(べきである)」

 とよく言われる。その根拠は「ゲーム的な面白さは、感性に依存しない、普遍的な面白さであるからだ」と言えよう。が、実際は、これは必ずしも正しくない。たとえば世界的に有名な「囲碁」というゲームがある。あなたはこのゲームの面白さがわかるだろうか?私にはわからない(笑)。いかにゲーム的な面白さがあったとしても、それがわからなければ意味がない。では、わかるためにはどうしたらいいかというと、そのゲームのメカニズムを頭で理解する必要がある。そして理解するためには、学習しなければならない。
 ただ、ほとんどの人間は学習能力があるので、おいおいわかってくるようにはなる(はずである)。

 一方、「ゲーム的でない面白さ」(ギャグとかストーリー的な面白さなどなど…)は、「感性」に依存する。「感性」に依存するということは、分からないとおもしろくないのはもちろん、学習しても面白さがわからない人がいるという危険をはらんでいる。とはいえ「不朽の名作」などと言われるとおり、感性に依存していながら普遍的な面白さを持ったものは確かに存在する。ただし、それを表現するためには表現者の技量が要求されてしまう。が、『感性』に依存する以上技量がなくてもわかる人にはわかったりもする。
 その辺りが難しいところであるが、逆に言えば技量を磨けば「ゲーム的でない面白さ」をもGMは表現できるようになる。感性の方もいろいろな刺激にならしていくことで磨くことができる。慣れの問題だ。

 実際のところ、コンベンションとかで1回しかプレイしないような場合には、そのメンバーの中で感性が合う部分を探った方が手っ取り早い。そのためGMが幅広い感性の窓口を身に付けるのは非常に有効である。一方「ゲーム感覚」を身に付けさせるには時間がかかる。
 ということで、長くより深い面白さを得るためにゲーム性を追求するのはいいと思う。しかし、1回のみとか、初めての人相手にする場合には「ゲーム性の追求」は明らかに知ってる人とそうでない人の間で疎外感を産んでしまうので、ほどほどにした方がいいと思う。ゲーム性の追求というのはどちらかというとマニアな方向性の面白さだからだ(そういう方向性も好きだけど)。


◆「TRPGにおけるコミュニケーション」−2000/06/05

「あなたのノリは私にはわからない。
 その『面白さ』は私にはわからない。
 だから、もっと分かりやすく表現(説明)して欲しい。
 それが出来ないんなら、最初からやるな。
 あるいはせめて、周りに迷惑をかけない程度に押さえて欲しい。」

 …結局のところ、演技にしろ、ノリにしろ、人に不快感を与える最大の根本的な原因は

「わからない」

からだと思う。
 まあ、ここまではいい。TRPGはコミュニケーションをするゲームであるから、たとえ今わからなくとも、会話によってそれがお互い分かるようになっていけばいいのだから。

 第1の問題は、

「相手が、分かっていないことが分からない」
「相手が、不快感を感じていることが分からない」

というところ。「分からない」と言うより「分かろうという努力をしていない」と言った方が良いかもしれない。一方的に吐き出すばっかで、自分のアクションに対するリアクションを見ていないということはないだろうか?とりわけ「否定的な」リアクションを見ないということは?

 TRPGでは「仮想現実」を取り扱う。が、それは「仮想」であるが「現実」でもある。舞台は想像上の世界であるが、そこで交わされる会話は、仮想世界の登場人物の会話であると同時に、『現実』のPL同士、PLとGMとの間の会話でもある。だから、『現実』と同じように自分の話す言葉が相手にどう取られるかを意識した方が良い。意識せず好き勝手言えば、時に相手に不快感を与えることになるのは『現実』と全く一緒である。

 第2の問題は

「相手に分かって貰うための努力をしない」
「相手を分かるための努力をしない」

という部分。
 自分一人だけで遊ぶのであれば、こんなことをする必要はないのだが、通常TRPGでは複数の人間で遊ぶことになる。従って、上の事柄は、ごく常識的にコミュニケーションを取る上で必要だ。
 しかし、現実に出来ているであろうか?相手の言うことはあなたの理解を超越していて解しがたいので、最初から考えることすらしないというようなことはないだろうか?あるいは、「どうせわかりっこないから」とあきらめて説明を省いてしまうってことはないだろうか?

 これらは、すべて「独りよがり」に繋がる。

 まあ、そもそもすべてを理解し合うなんて不可能なので、「独りよがり」だからといって一概に悪いとは言えない。だが、最低限筋を通して「分かり合える部分」を作り出す必要はある。一方、時には「独りよがり」も構わないと思う(許せる範囲内であれば)。が、程々にしないと「うるさい」「くどい」「しつこい」と思われても仕方がない。結局『現実』に照らし合わせれば「ほどほど」「バランスを取って」ということになる。

 何だか話が拡散してきたのでまとめよう。私の考えはこうだ。

「TRPGはコミュニケーションをするゲームである以上『解り合える部分』を作り出さなくてはならない。
 そのためには、お互い意識して歩み寄ろうとする必要がある。」

もうひとつ、

「TRPGのセッションは、『コミュニケーション取る』という意味においては『現実』の会話と同じものである。
 よって、そこでは『現実』の会話と同程度の『モラル』が、その参加者に求められる。
 その『モラル』なり『ルール』なりを守らなければ、『現実』と同じように他者に不快感を与えることになるし、それを続ければ、当然それなりの措置を受けることになる。
 また、そういう弊害が現実に起きているのであれば、それなりの措置を執るべきである。」

−以上−


◆「“普遍的”な表現は簡単に出来る」−2000/06/05

 TRPGで自分が何かを(演技などで)表現しようとした場合によく起こる弊害は、「わからない」というものであろう。そこで、なるべく誰にでも分かるような表現を簡単に出来るようにする方法はないだろうかと考えていて、思い付いたのでここに記す。実際は、これまで私自身意識せずにすでにやってきたことである。

 ちなみに、ここで私はさんざんあれこれと偉そうに書いてきているが(笑)、たいていのことはすでに私自身がやっているか、あるいはこれを読んでいるみなさんも「意識せず」やって来ていることだと思う。私は単純に、その「意識せずにやってること」をこうやって文字化しているだけで、「そんなすごいことを考えていつもやってるのか〜」とか思われていたとしたら少々心外である。そんなこといちいち意識して考えながら遊んでるわけないじゃないですか(笑)。

1)大枠で捉える
 具体的で細かいネタについては、当然知っている人間が限られてきてしまう。例をあげよう。

 「サン○ルカン」と言って、それを具体的に知っている人間はどれくらいいるであろうか?

 私の感覚だと、20代後半から30くらいの人間が知っていると思われる。実際にTRPGを遊んでいる人間は12歳くらいから30くらいまでと考えられるので、単純に確率を考えると3分の1くらいの人間が知っていることになる。しかし現実には同じくらいの年代の人間が集まることが多いので、「知っている人が多い」「ほとんど誰も知らない」のどちらかになる確率が高い。それでも複数回セッションを持てば、単純計算で3回に1回は「当たる」ということになる。
 では、このネタは使えるであろうか?明らかに「知っている」年代の人間相手をやる場合には有効だ。しかし、不特定多数を相手にコンベンションなどでプレイする場合には「使えない」。

 しかし、もう少し大枠で考えればましになる。

 「戦隊もの」と言って、それを具体的に知っている人間はどれくらいいるであろうか?

 私が先に述べたTRPGをやっていると思われる年齢層の人間(12歳くらいから30くらいまで)であれば、ほとんどの人が何らかの形で知っているものと考えられる。これは「使える」。しかし、社会全体から考えると、これでもまだまだ「マニアなネタ」の領域にとどまっており、世間から見れば「マニアなネタを題材にした遊び」と取られることは必死である。

 では、「勧善懲悪もの」と言って、それを具体的に知っている人間はどれくらいいるであろうか?

 私の感覚では、赤ん坊や小さい子供を除いたほとんどすべての年代の、世界中の人間がこの概念を知っているものと思う。これは「使える」。非常に普遍性も高い。

 しかし、大枠で捉えようとすればするほど物事は曖昧になっていく。具体性の高いネタを使う唯一の利点は「細かいディテールまで説明なしに共有できる」ところであるが、その部分は切り捨てられることになる。

2)「オリジナル」の普遍性
 自分で独自に考え出したもの「オリジナル」は、ただそれだけで普遍的である。つまり、「誰も知らない」という意味において、それは絶対的な普遍性を持っている。
 唯一の問題は「誰も知らないから、一から説明しなくてはならない」という一点につきる。それさえクリアできればこれ以上完璧に「普遍的」な表現は存在しない。

3)「大枠」を普遍的なネタに、細部を「オリジナル」に
 以上のことから、非常に簡単に「普遍的な表現」を作り出すことが出来るようになる。
 「大枠」の概念は、ただそれだけで普遍性の高いものになりやすいので、それはどこかから借りてくればいい。細かいディテールは「オリジナル」にしてしまえば、そもそも誰も知らないので「知っているから楽しい」「知らないから着いていけない」といった差別を生み出さなくなる。また、ベースとなる「大枠」はそもそも借り物なので説明が不要となり、結局教えるべき点は個々の細かいディテールだけになって、一からすべて教えるよりも遙かに楽になる。


↑↑