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駄文

 むかーし書いた駄文の数々(笑)。TRPGに関係あるかもしれない?やっぱりあんまりまじめに取られても困るようなよた話ばかり…?


◆「運命」−1996/03/20

 「運命」とは、その人が望むと望まぬとに関わらず降り懸かってくるものである。
 それは、時に圧倒的な影響力でもってやってくるが為に、多くの人はそれに操られ、振り回されてしまうことになるが、本質的には「運命」とはあくまで一つの"状況"でしかない。その"状況"の中で自分が何を選び、行動するかは、あくまで本人の意志に任されている。

 ・・・・・・というのが「運命」に対する僕の、シリアスな考えです。実際にそんな過酷な状況にたたき込まれたら平静でいられるか自信はまったくありませんが、フィクションの中でならその状況を楽しめるかな。


◆「私にとってのRPGとは?」−1996/01/01

 あ〜 最近はもう、すっかり吹っ切れてしまったので、この問に対する答は端的に言うと「遊び」としか言いようがありません。とても楽しい「遊び」。

 何で楽しいのかと言えば、想像力の赴くままに何でも出来るから。あと、他のプレイヤーと、いろんなレベルでのコミュニケーションが出来るから。すでにかなりいってしまっているかも知れない(否定はしない)。

 話は変わりますが、僕は「謎解き」が好きです。なぜかと言うと、謎を解くということは、すなわち出題者の意図を読み解こうとする行為であり、それはコミュニケーションだからです。

 コミュニケーションには大まかに2通りの方法があります。一つは「感情的コミュニケーション」第二は「論理的コミュニケーション」。

 「感情的コミュニケーション」には"経験"が重要で、互いに共通の経験がないと難しい。
 「論理的コミュニケーション」の場合には、"理解"さえ出来ればあらゆることが可能になる。でもリアリティに欠けてくる傾向がある。

 「謎解き」は以上の分類から言うと「論理的コミュニケーション」と言えます。それぞれの人の持つ経験が違う以上、「感情的コミュニケーション」には限界があります。特に、「プレイヤー」と「プレイヤーキャラクター」の間で感情的コミュニケーションをするのはきわめて困難です。だから論理的に理解することでその間の溝を埋めなくてはならない。

 例えば「記憶を失ったキャラクター」をプレイヤーが演じるとしましょう。そのキャラクターが記憶を思い出す過程をどうプレイヤーに伝えたらいいでしょうか?

 第一の方法は「そのまま伝える」ことです。「このキャラクターはこれこれこういったことを思い出したよ」と言うだけです。プレイヤーはキャラクターに対して疎外感を覚えるでしょう。で、プレイヤーはキャラクターとの溝を埋めるために「このキャラクターはこんなことを思い出してしまったんだから、きっとこんなリアクションをするだろう」と考えてロールプレイすることで、記憶を思い出したキャラクターの気分を少し味わうことが出来る。 第二は、失われた記憶に関する手がかりを断片的に与え、それをプレイヤー自身に推理させるという方法です。これはキャラクターが「思い出す」のと、プレイヤーが手がかりから「思いつく」のをシンクロさせる方法で、「何だかよくわからなくてモヤモヤしていた記憶がふっと鮮やかによみがえる気分」に似た感覚をちょっぴり味わうことが出来ます。 ・・・・・・話が盛大にそれてしまった。強引に話を戻すと、RPGはこういった実生活には全く役に立たないようなくだらないことまで考えて楽しめる「遊び」だと思います。僕にとっては。


◆「伝統・文化」−1995/12/04

 ちょっと見にはかっこよさそうに見えて、重々しい感じがして、実際それがなんなのかと言われるとよくわからなかったり、わかっても結構くだらなかったりすることもある。なんだかよくわからないものですが、要するに人が生きるときの「スタイル」


◆「ロールプレイに関して」−1995/12/04

 あなたはRPGをするときに、「プレイヤーの立場」と「キャラクターの立場」を区別してプレイすることができますか?あるいはあなたの周りのプレイヤーはそう入ったことをきちんとできますか?

 ・・・・・・何やらあやしげな宗教か何かの勧誘みたいになってしまいましたが、これは結構重要なことだと思います。

 この区別ができないプレイヤーを相手にした場合に起こる第1の弊害は、たとえば彼(彼女)のキャラクターが死んでしまった場合、怒りだすことです。どんな理由があろうとも。だから、そういったプレイヤーを相手に"悲劇"はできません。あるいは彼(彼女)に「英雄的死」などを期待することもできません。

 第2は、「『ロールプレイ』と『プレイヤーの"地"を出す』ことを混同してしまう」ことです。これは、悪くすると結局プレイヤーの欲求でのみキャラクターが動かされることになり、気がつくとロールプレイは2の次になっていることがしばしばです。

 第3は、「PC同士の会話」ができないことです。"照れ"があるのかも知れませんが、プレイヤーとしてなら話せるのに、キャラクターとしての会話はほとんどしません。セッションが終わって何か一つの冒険を終えたはずなのに、PC間の人間関係は希薄なままということがしょっちゅうです。

 ということで、「ロールプレイをしたい」とか「ロールプレイできるようになりたい」という人はこういったことに気をつけてみるといいんじゃないでしょうか。

 キャラクターはプレイヤーの手によって生まれ、生きます。でも、いつかは死ぬものなのです(普通は)。だから彼(彼女)がどう生き、どう死ぬかまで考えてあげるといいと思います。 また、「プレイヤー」と「キャラクター」は別物です。共通している部分もあるでしょうが、必ず何らかの"違い"があるはずです(住んでる環境とか)。"なぜロールプレイするのか"という問に対する一つの答は、「違っているからだ」と言えると思います。そしてその違いを埋めて同化しようとする行為が「ロールプレイ」なのではないでしょうか。そもそもプレイヤーとキャラクターの間に何ら違いがないのであれば、ロールプレイする意味がありません。 あと、ロールプレイによってキャラクターの個性を出そうとする場合、まずどんな場面でそれが現れるのかと言えば、やはりキャラクター同士の会話ややりとりからではないかと思います。特にセッションの中でもっとも多くの時間を共に過ごすキャラクターといったらそれはPCですから、PC同士どんな話をするか、どんな人間関係を作るかということに気を付けてプレイしてみるといいかと思います。(なんか最近こんなことばかり書いてるなぁ。)


◆「『システム論』について」−1995/07/15

 う〜ん。ぼくは、「RPG」というゲームは、本当は最終的にはシステムはいらないというか、同じメンバーでやり込めばやり込むほどシステムが不要になっていって、最終的には本当に"想像力"だけの遊びになるものだと思います。

 きちっとしたシステムでもって戦闘なり何なりをしたいのであれば、シミュレーションゲームをやった方が、よほど細かい部分までルール的に再現されているし、バランスも取れていると思う。あるいは、システム的なわずらわしさが嫌だというのであれば、それこそコンピューターのシミュレーションゲームとかやればいい。

 では、わざわざ人が集まって何でTRPGをやるかって言うと、集まった人たちがそれぞれそれぞれのことを想像して、ゲームの上で共有してみるというのが面白いからじゃないでしょうか。あるいはそうやって「物語」を作り上げていくのが。

 こうやって説明してみると妖しいゲームだ。

 そんなわけで、「RPG」にシステムなんて必要ではないと思うのですが、それではゲーム会社などにとっては商売にならないので、今、どういう流れになっているかというと、システムを相変わらず飽きもせずに販売すると同時に、付加価値として「プレイスタイルの提示」といったことをやってる訳です。あるいは逆に、純粋に新しい「遊び方」を伝えようとするためには、やはり「システム」が必要になってくる。

 ・・・・・・ということで、「プレイスタイル」というもの重視してRPGをやってみると、何か面白いものを発見できるかもしれません。

 この方向で最も先駆的なものは、おそらく「クトゥルフ」などに用いられている「ベーシックロールプレイ」でしょう。これは、基本的なシステムとしてはあまりにも完成され過ぎているが故に、以後、斬新なプレイスタイルを打ち出さなくては売ることすらままならないようになってしまった。そして、「ルーンクエスト」「クトゥルフ」「ストームブリンガー」「エルリック」といった特異的なシステムが生まれた。(「ストームブリンガー」と「エルリック」は同じ背景世界を用いていますが、そのスタイルは全くと言って違うので、別物と考えた方がいいと思います。) もうひとつのRPGの新たな方向性は、「シナリオ」「リプレイ」だと思います。たとえ新たなプレイスタイルを打ち出したとしても、実際それをどう遊んだらいいのかを伝えることが出来なければ意味がない。で、遊び方を伝えるための何らかの"ソフト"が必要になるのですが、日本の場合「リプレイ」がその大きな役割を担っているようです。
 「リプレイ」というものは、「戯曲」とか、いわゆるごく一般的な意味での"シナリオ"と酷似していて、そこに書いてあるせりふなり何なりを、そっくりそのまま読んで演じる練習でもすれば、読み手のロールプレイの技量の向上につながるかも知れませんが、実際は読み物として読むだけなので、せいぜい「雰囲気」を伝える程度にとどまります。
 「シナリオ」の場合、まず「読みにくくてあまり面白くない」「プレイヤーは読んではいけない」といった欠点があります。でも、マスターが実際のセッションを行うための具体的な参考になるでしょう(そのために書かれたのですから。)。

 以上の説明だと「リプレイ」「シナリオ」というのは、あくまでシステムに従属的なものだと感じられるかも知れませんが、逆にこれらのものからは、「この『システム』で、こういった遊び方もできる」といった提案もできます。実際にそれだけの内容を持った「リプレイ」「シナリオ」が国内で出ているかどうか大変疑問ではありますが(どうなんでしょう?)。 長々と小難しいことを書いてしまった上に、大幅に当初の論旨から話が外れてしまいました。が、個人的に思うのは、TRPGというのは非常にアバウトなゲームで、バランス云々について言ったとしても、それはマスター次第で何とかなるし、「面白さ」についても同様だと思います。 だから、どうせ交流をするのならば(いきなり話をすり替えますが)、「こんな遊び方をしたら面白かった」とか「こんなシナリオをやってみた」といったことがぜひ知りたい。シナリオにしても、マスタリングにしても、プレイしている地域などによって、内容も、質も、かなりちがう。 僕は、そういうことこそ知りたいです。


◆「ゲームにおける善悪」−1995/03/20

 善悪なんてしょせん相対的なものでしかないさ。

 キャラクターを作るときにそのキャラクターの価値観について考えますが、その"信念"に従う事柄を「正しい」そうでない事柄を「間違っている」と判断するだけです。例えばD&Dならば「LAWFUL」というのは「世間一般に信じられている"法"を絶対的な教えと信じ込んでいる輩」と考えることにしています。従っていわゆる「政治屋」でなおかつローフルというキャラクターも存在し得る。

 ・・・・・・そんなわけで僕にはヒーロー向けのRPGではダーティーな奴かクールな奴しかできませんね。


◆「プレイヤーについて」−1995/03/20

 基本的にRPGでゲームマスターが全てを与えてくれるという考え方は間違っている。プレイヤーがRPGにおけるストーリーの創造にもっとアクティブに関わってくれるようになった方がいろいろと面白いことができるようになると思う。僕は主にゲームマスターばかりやっていてプレイヤーの気持ちとかよく見えないことがあるんですが(久々にプレイヤーをやり、キャラクターが死にそうになって『悲しい』って切実に思ったことがある。基本的に無謀なキャラだったので自分でも止められなかったんですが。)、でもいろいろ不満に感じることがあります。で、ゲームマスターとしてプレイヤーに言いたいことを書きます。

 プレイの難度や方向性などによってプレイヤーに求められるものも変わってくるのですが、まず最初に思うことは「自分のキャラクターのことぐらいは責任を持って自分で考えろ」ってことでしょうか。ゲームマスターの言葉に素直に従って何となくプレイしていれば何とかなるという無気力な態度では張り合いがなくてつまらないし、それではその日にそのメンバーが集まってプレイする意義があまり感じられない。自分のキャラクターがどんなキャラクターで、いつどこで何をどうするかぐらいは自分で考えて決めて欲しい。

 次に思うのは「ルールを覚えろ」ということで、ルールってのは要するにコミュニケーションの道具なんだから、最初はわからなくてもかまわないけれども、わからないのだったら人に聞くか、調べるかして覚えなさいと思う。

 三つ目。「人の話を聞きなさい」。他のプレイヤーにしろゲームマスターにしろ、その人の話を聞かなければ何も理解できない。だいたい君らはいったい何のためにパーティーを組んで入るんだねというパーティーが多い。また君らはゲームマスターやシナリオを何だと思っているんだというようなプレイヤーも多い。人の話も聞かずに自分のやりたいと思うことだけを好きにやるんだったら自分でゲームマスターをやってくれって思う。

 四つ目。「プレイヤーとして言いたいことは言いなさい」。ここまで主張するプレイヤーはあまりいないし、そこまでゲームマスターとしてプレイヤーに求めることはできないけれども、でも言ってもらうにこしたことはない。ここで"文句"を言うだけというのは誰にでもできるけれども、もし可能ならばそこで「具体的に自分はこうしたい(して欲しい)」ということまで言ってくれると嬉しい。そこまで行って初めてプレイヤーとゲームマスターが対等にコミュニケーションできたことになると思いますがどうでしょうか。

 ・・・・・・これはゲームマスター側からの極めて一方的な意見ですが(と言っても書いていることはごく常識的なことばかりですが)、最近のプレイヤーは「プレイヤーしかやったことがない」という人が多く、そういう人は比較的プレイに対して消極的で、さらに自分のことしか見えないことが多いと感じるので書いてみました。プレイヤーもその技量を向上させていくことができるし、またそうした方がお互いにより深いレベルでRPGを楽しめるようになるのではないでしょうか。(ずいぶん偉そうに書いてしまった。)


◆コンベンションプレイレポート−1995/03/20

 3月に、とあるコンベンションに行っていきなりゲームマスターをやってきたんですが(実は、これがコンベンションでゲームマスターをする初めての機会だったのですが)、非常に面白かったです。

 二つシナリオをプレイしてきたんですが、1つ目はいわゆるダンジョンシナリオで(と言ってもかなりトリッキーなダンジョンで、謎解きが結構難しかったのですが)、プレイヤーがきっちり悩んでくれて最終的には全て自力で解いてくれたしそれなりに楽しんでくれたようだし、よかった。この手のシナリオはかなりシステマティックに作れてきれいにすっきりと話をまとめやすいのでいいですね。

 2つ目は非常にハードでシリアスな探索シナリオで、何か特殊な力のようなものを持っているらしい少年がパーティーに保護されていて、その少年の命を狙っているのが少年自身の父親であるというどうしようもなくひどいシナリオだったのですが(デッドリーなバランスで、極めて不親切なマスタリングをしていたのでプレイ終了時にキャラクター及びプレイヤーが一体何人残っているか心配だったのですが・・・・・・)、途中山のようにたくさんの不手際があったにも関わらずなんとか最後までたどり着くことができました(1人死なせてしまったけれども)。そしてキャラクター同士のからみの末にその父親が死に、しかしその思いは晴らされて成仏し、少年も精神的に成長し、シナリオを最初思いついたときに想像していたような領域にまでたどり着くことができた。RPGが言葉によるコミュニケーションのゲームで、プレイヤーとマスターの間で理解が成り立っているのならば、もはやシステムすら必要なくなるということがよくわかりました。  おそらく、かなり世間一般の感覚とは異質のシナリオで、異質のマスタリングをしてきてプレイヤーの方々に"衝撃"を与えられた手ごたえがあったし、こちらもいろいろ教えられたことがあったし、非常に有意義な時間を過ごせました。

 また、行きたいですね。


◆『ゲームと宗教』−1995/05/20

 ファンタジーと現実では宗教というものの持つ意味が微妙に違う。ファンタジーの場合たいてい本当に神様が実在する。だから基本的に神に対する"畏れ"がその根底にあるように思える。現実の場合にはまず神の実在を科学的に証明できないので、ほとんど"生き方"を教えるためのシステムと化してしまっている。ファンタジーRPGで宗教家をプレイするのならばもっと神を畏れるべきかもしれませんね。

 僕は、個人的には神を"崇める"っていうようなのは好きじゃないんですけどね。


◆「ヒロイズムとリアリティ」−1995/01/10

 「リアリティ」を優先するとシビアになる。が、いい意味での"緊迫感"を保つことができる。これを守ることは世界観を守ることに他ならない。
 「ヒロイズム」を優先すると、プレイヤーとゲームマスターの「ストーリー観」の戦いになる。世界観は揺さぶられるが「面白ければ良い」の論理を通すことになる。しかし度が過ぎればそれは"なれ合い"にと変化してしまう。

 ・・・・・・要はバランスかな。僕の感覚ではまず「面白ければいい」といってかなりのことを許しますが、最終的には「リアリティ」をないがしろにしないように、たとえファンタジーでも、どんなことをするにも(こじつけ・後付けでもいいから)その事柄の起こった理由はちゃんと考えるようにします。そして、あと、基本的なルールは破らないに越したことはないという程度には考えています。


◆「コンベンション」−1994/09/15

 実は、まっとーなコンベンションに行ったのは今年(1994年)の夏休みが初めてだったんですが、なんかすごく気をつかって疲れてしまった。

 やっぱりゲームマスターがいちばん大きな視点からセッションを見られるはずだから、そういう所で気をつかって、出来たら一人一人のプレイヤー もらった方がプレイヤーとしては楽にプレイできるなぁと思った。(おもいっきり愚痴ってしまった。ゲームマスターをやりすぎた弊害かも知れない。) コンベンションはいろいろ問題はあるようですが、主旨としてはとてもいいと思います。いろんな人に会えるし、マスターとしてならごく客観的にマスタリング・シナリオの良しあしが評価されていい経験になる気がするし。 今回行った所はかなりマナーとか良かったし、いろいろ気配りも行き届いていたし、その点に関してはスタッフの人たちに対して「ごくろうさま」と思いました。ああいうのをちゃんと運営するのはなかなか大変ですからね。


◆「私的シナリオの作り方」−1993/10/14

1.内容のあるシナリオを

 わたしはRPGのゲームマスターをするとき、シナリオに凝ります。というのは、RPGでどこまでのことが表現できるかということに興味があるからです。 RPGが人が集まって何らかの物語を作る遊びだとするならば、その"物語"というものに表現としてさまざまな可能性があって、実際にいわゆるおきまりの"お話"から現代的な小説(いろんなジャンルの)、さらには埴矢雄高の「死霊」のような前衛的(?)なものまでさまざまなものが示されている以上、本当は質的に多様な物語がRPGの中でできるはずです(可能性の上では)。

 が、実際は、音楽の世界でも同様なんですが、「わかりやすい」ものが大量に出て、その中で多少「内容のある」ものが残る。当時わかりにくくても「内容のある」ものはマーラーみたくいずれ理解される時がきてそして残っていく。菊池という人が某本の中でシナリオの「わかりやすさ」について言っていたけれども、たとえわかりやすくても内容がなければいずれ廃れていってしまうので、わたしの場合はまず「内容がある」ことからはじめる。そしてそこから「どうすればわかりやすい展開になるか」を考える、という作り方をします。 よって以上のことをまとめると、わたしのシナリオを作るときの方針はこのようになります。

☆「内容のある」シナリオを作る。
☆RPGのシナリオとして分かりやすくする方法 を考える

2.内容のないシナリオを

 「物語ゲーム」というのを知っていますでしょうか?適当に並んだ人々が順々にお話を作っていくというものなんですが、これがハチャメチャでとても面白いという話です。
 わたしは実際にそれをやった記憶はないんで何とも言えないんですが、(ひとつのシナリオでゲームマスターを持ち回りでやって、自分の番の時にはどんな風に展開させてもいいという風にしたことはあるんですが。メチャメチャな展開で途中で空中分解してしまいましたが。)ある程度慣れが必要だと思いますが結構面白そうな気がします。

 全く何の指針もないととんでもないことになるので、タロットを使ってそのカードの意味に従って話を作るようにするというゲームを考えた人もいました。いわゆる連作小説みたいなのもあるなぁ。推理小説でこういうことをするのは非常に無責任な気がするけれども、そういう推理小説もあった。

 RPGの話に戻すと、RPGの話の中での主役はPCだ!というのならば実はプレイヤーのRPGで作られる"物語"に対する権限はかなり大きいと言えます。そのPCの過去とかの設定は大半自分で勝手に決めてしまえるはずだし、またPCの行動は思うがままであると。

 ということで、たとえゲームマスターが"押し""引き"に関係なく、シナリオとしてある「物語」を主張したとしても、それに従うか、逆らうか、変更させるか・・・・・・といったことはプレイヤー次第なわけです。よって、場合によってはあらかじめ用意したシナリオをすっぱりあきらめて全く白紙の状態に戻る必要が出てくることもありえます。逆に、あらかじめ何も決めずにPCが好きなように行動することを前提にプレイすることもあります。

 正直こういう方がわたしは好きです。非常に面白いです。特にファンタジーは何でもありなんであらかじめ何も決めておかない方が面白いことが多いです。あるいは何か決めておいたとしてもそれが覆されて、また白紙の状態から始めるというのもいいです。 ただこれをやった場合、内容的に支離滅裂なものになりやすいので最後の"締め"だけはある程度考えておきましょう。

☆あらかじめ考えておいたものが覆される場合を 考えておく。
☆"あらかじめ何も考えないでおく"という場面 も時には作ってみる。
☆最後の"締め"はちゃんとするようにする。


◆「クリティカル」について2−1993/09/24

 前の回答についてですが、わたしは非常によく成功判定のダイスを振らせる方なんです。それで25%でクリティカルが出るとすれば、4人プレイヤーがいたら毎回平均して1人はクリティカルが出るということになるんで、それはすごいなと思った訳でして・・・・・・。非常にヒロイックな世界になるのかなぁ。プレイヤーの態度について聞かれているのにルールの方に興味を持ったと。論点がずれているね。 「その世界で起こり得ないことを起こしてはならない」というのは裏返すと「その世界で起こり得ることなら何を起こしてもいい」ということで、それがご都合主義的に起こるのがクリティカルの意味であろう、と考えるわけです。幅100メートルの川を飛び越すなんて力学的に人間には"絶対"不可能ですが、でもファンタジーの世界ならば何らかの不可思議な外力が働いて飛び越えられるのかも知れません。その辺の説明が欲しいというか、説明さえつけばよろしいと言うところか。ファンタジーなら「魔法だから」で、なんでもすましてしまえますが。

 で、出題のような人にどう対するかというのは、わたしの場合完全なストーリーマスターなので、「クリティカルによってどの程度ご都合主義的なことがどういう場面では起こってもいいのか」について大体決めてしまっている。だから切るところはスパッと切ってしまうということです。あの文章からすると最初の数行が主張の中心であったと。

 ・・・・・・まあ、いいです。最近は新しい人のマスターをする時なんか、まず「RPGってのはこういうもんだ」という概念をぶち壊して、それから最初からプレイスタイルを作り直させるなんてことをしばしばやってるんで、「プレイヤーのわがままなんて可愛いもんだ」と思ってしまいます。たとえ自分勝手であろうと、何か言ってくるなり、何かしてくれるプレイヤーならば必ずどこかに妥協点なり、協調できる点があるはずで、それは時間をかけることで見つけられるであろうと思います。

 問題は「なにもしない(言わない)プレイヤー」だと感じます。わたしがマスターをやるときはひとりでも"参加していない"プレイヤーがいると非常に気になります。「君はいったい何をするためにここにいるのか?」と問いたくなってしまう。普通"主役"になるはずのPCが何もしないというのは、すなわち物語が停滞してしまうわけで、やれやれ困ったということになる。

 またキャラクターを作るときなんか結構思い入れをこめて作る人がよくいますが、それがプレイのなかで生かされないというのも嫌だなぁと思う。最終的にプレイヤーの全員が何らかの形で参加できるセッションができるといいなぁと日頃思っています。(話が変な方に飛んでしまった)


◆マスターとは−1993/09/24

 わたしの場合は、

・「お話」の原型を作る。
・PCたちをとりまく状況、物事の流れを考え、それを告げる。

・・・・・・といった役割をプレイ中しているので、"それをする人"というのがわたしの答。全然、一般的じゃないですが。


◆マスターをできる人間 マスターをする人にあって欲しい(あるべき?)条件−1993/09/24

・「お話」を作れる。
・「世界」「場面」をイメージできる。
・プレイヤー、PCを"見れる"。

 基本的にこういうことができる人がマスターをできるのではなかろうか。プレイヤーに説明するための話術とかは経験等によって誰でも身につくであろうから条件には入れない。


◆「セッションの終わり方」−1993/09/24

「はい。と、いうところで今回は終わりです。」
「ええ、キャラシートに自分の名前を書いておいてください。」(初めての時)

 あまりセッションの終わりに気を遣ったという記憶はない。プレイ中はテンションをハイにしているので終わるとどっと疲れが出る。必要なこととかをさらっと言ってさらっとすませる。

 時間については、プレイヤーは本当に全くと言っていいくらいプレイ中の時間を意識していないようなので、こちらで気をつけていなければならない。 キャンペーンばかりやってるので、「時間が来てプレイを中断?あっ、そう。」という感じだ。慣れてくると、適当にやっていてもちょうど切りのいいところで終了時間がやってくる、という神業ができるようになる。


◆「クリティカル」について−1993/05/19

 ええ、私がマスターの場合、ルールは適当にしかやらない・・・・・・つまり「逆」に、その世界でのリアリズム、あるいは「シナリオとしての展開」、ノリ、を重視する・・・・・・ので、クリティカルしようがしまいが、「絶対に出来ないことは出来ない」としてしまいます。もちろんクリティカルすれば「普通にやったのでは到達できないようなこと」が起こりはしますが。でもやっぱり「出来ないことは出来ない」と。

 でも25%もの(比較的)高い確率でクリティカルが出てしまうということは、その効果もそんなに大きくないとすべきなのかなぁ?普通の「達成値」方式のルールなら「上方無限ロール」がたいていあって、とんでもない「達成値」が出るのはそれ相応に「とんでもなく低い確率」になっていて、「それくらいやればそれなりにすごいことも起きていいかな?」とも思いますが。結局その辺を簡略化したルールならば、そういった範囲のことは要するに「フォローされていない」わけなので、こちらの良識にまかされていると判断するしかない。「ルールは万能ではない」と。

 あとゲームマスターは、"絶対に"理由もなく「その世界で起こり得ないことを起こしてはならない」と思います。それは自分でその世界の整合性をぶち壊すことになりますし。結局ゲームマスターが操作できるのは「起こり得る"偶然"を自分の都合で起こすこと」ということだけなのだと思うのです。


◆キャンペーンの始まり−1993/04/19

 私はRPGのシナリオを始める時、特にキャンペーンを始める時の、そのやり方で最も好きなのは、何の前触れもなく突然『さて、どうしますか』と切り出すやり方である。そのいちばん純粋なやり方は、システム・背景世界を事前には明らかにせずにやるやり方だと考えるが、実際それをやるのにはとりあえずあまり気心の知れていないプレイヤー相手にやるのはなかなか辛いものがあるので、最近はやっていない。

 ところで、そのプレイヤーがプレイすべきキャラクターはいったいどのようにして形作るべきか・・・・・・それは、プレロールド・キャラクターを使うか、プレイ中に作ってしまうかすればいい。ただし、どちらにしろゲームマスターは、プレイヤーのためのキャラクターについて、ある程度は考えておかなくてはならない。何しろこの「最初にPCの自我の存在しか教えない始め方」の場合には、彼がその後で知る「自分が何者であると判明するか」の答に全く何の制限がなく、かつゲームマスターはある程度それを勝手に決めつけてしまえるからである。ここから先はゲームマスターの想像力に委ねられる内容であるが、PCは必ずしも人間とは限らない。もしかしたら生き物ですらないかも知れないし、さらには物理的な物質に全く依存しない存在なのかも知れない。彼について唯一言えることは「自我を持っていること」だけなのであるから・・・・・・。 話が少しそれたので元に戻して、「なぜそのやり方が好きなのか」という話をしよう。

 その第1の理由は、上でも少し触れたが「どんなPCでもプレイヤーにプレイさせられる」ということと、そこからさらに発展させて「何でもできる」からである。何でも、どんな世界・シチュエーションでもプレイできるからである。想像力さえあれば。よって、私に仰々しいシステムや、押しつけがましい背景世界「ワールド」は必要ない。

 第2の理由は、青春小説的な「アイデンティティの発見・確立」及び、そこから発展させて「生きるため(等)の目的を見つける」ということ、RPG用により具体化すると「冒険の理由を探すための探索」といったシチュエーションが好きだからである。何らかの(必ずしも"金"などの目に見える利益に限らない)自分なりの理由を見つけ、己の意志によって冒険し、そして何かを得、何かを失うといったシチュエーションが好きだからである。

 第3の理由は「そこから世界が始まる」からである。「見る」ことによって彼には「目」があることになる・・・・・・「歩く」ことで彼は足を持っており、そしてそこには歩くべき地面があることがわかる・・・・・・「酒場へ行く」「家に帰る」「図書館に行く」「武器屋に行く」「馬を借りる」・・・・・・云々。そこで、彼にとっての日常的な「ある・なし」が決まってくるのである。

 第4の理由は「迷う姿」が好きだからである。純粋に未知な部分では当然PCは迷い、考える。それを肌で感じてもらうために、私はしばしば「敢えて言わない」といったことをし、最初にこういったことをするのはその最たるものである。 第5の理由・・・・・・これが最も私にとっては重要なのだが・・・・・・それはその導入の仕方が「謎めいている」からである。


◆「謎」の出現−1993/04/13

 RPGにおける「謎」についての話は新紀元社の「ダンジョンメイキングガイド」である程度触れられているので、それを見てもらえると多少は造詣が深まるであろう。したがってここではほかのことを書く。

 「謎めいた現象」を引き起こすにあたって、実際は、あるレベルで論理的(科学的?)に筋道の通った一連の事柄というものがあって、その全貌を知らずに断片的・一面的な現象のみを知らされるというのが「謎」の出現として最も普通(というか、それがすべて?)で、実際シナリオとかを考える際にはそうして「謎めいた現象」の構成をする。(ダンジョンなどで唐突に出てくる「なぞなぞ」「パズル」などは考慮しないこととする。)

 その時、PCらにその謎を解いてもらおうと思うのならば、それがPCにとって(あたかもそれが、与えられた仕事であるかのように)必然的なものにしてしまうことも考えられるが、副次的な要因としかならないとしても、その謎が「魅力的な謎」であった方が望ましい。「謎」であれば何でもかんでも「魅力的だ」というのは浅はかというものである。
 確かに「謎」は謎であるが故にそれだけでもそれなりの魅力を持っている。しかしその謎が「解かれる謎」であったならば、それが解かれてもなお何らかの魅力を持っているか、ということは重要である。それが特にシナリオ中のメインの謎である場合には。また、もっと単純に謎そのものに最初の場面での「インパクト」の大小についても考えてみるといいであろう。

 『謎は考え得る限り奇想天外な方がいい』・・・・・・単なる一つの意見にすぎないが、「謎」をあからさまな形で出そうとする場合にはいえることであろう。が、その謎の答が"見かけ倒し"なものになり安いので気をつけよう。「謎」をメインにしたシナリオの場合には考慮してしかるべき事項かもしれない。


◆あるキャンペーンの導入−1993/02/15

 「はい、じゃあ自己紹介とかもすんだところで始めます。えー、君たちは今ナーハンの町にいます。時代はイーヴォ歴20XX年、季節は夏、日本で言うと梅雨の季節なんだけれども今年はどういう訳か雨が少ないようです・・・・・・まあそれぐらいかな、ということで、さて、どうしますか、じゃあ○○○さんから。」

「えー、じゃあ私は(ここが自分の出身地なので)まず自分の家に帰ります。」・・・・・・ 以下略。

 長すぎて書けません。以下はPCらがそれぞれ好きなように行動するのに合わせて冒険のネタになりそうな情報、あるいはキャンペーン全体に関する何らかの情報とかを提供します。PCらが勝手にそこでどの冒険に乗り出すかを決めればそれに従いますが、さもなければ頃合を見計らって"押し"の仕事の依頼をNPCにさせます・・・・・・という具合であった。


◆「人間の生命の価値とは?」−1991/06/21

 さあ何でしょう?数年前なら、ただ「さあ?わからんものはわからん」と言ったところでしょう。今なら何と言うかなあ。

 とりあえず、自分自身が人間である以上その存在自体に価値があると言えます。存在していなければ、どこにも可能性が有り得ませんからね。では、自分以外の人間にはどんな価値があるのでしょうか?よく、「他人は自分の鏡である」と言います。つまり、他人に対する認識は気付いているいないに関わらず自己の一部の投影であるので、やはり自分と同様の価値があります。また、他の、心あると思われる存在(普通はおもに人間)は、己の気付いていない何かを気付かせる可能性を持っているという点で価値があります。

 以上が、あの問に対する、ぼくのストレートな答です。ほかにたとえとかを使う説明の仕方もあるでしょうが、あえてやめました。堅い言葉を使うのが好きなんです。